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夕映えの恋 4

ページをめくろうとした時、敦子は人の気配と共に視界の先に男の手を見つけた。長く、一本一本形の良い指が木目のテーブルの上に、まるで綺麗に整列しているように見えた。コンマ数秒くらいの差であろうが、敦子は一瞬その指に見惚れて、それからその指の持ち主を確かめるように上を見上げた。

「やっぱりだ、女優さん」

くしゃっと自分に笑いかけるその人が誰か、敦子はすぐには理解できなかった。「女優さん」という言葉を手がかりにそれがあの店員だとやっと勘付いたほどに。

店員は黒髪で、スーツ姿だった。

「お礼に来てくれたんですか?」

黒髪になって幼さが増したような、寧ろ色気が増したような、金髪の頃より確実に眼力は増したと言えそうな店員はその吸い込むような眼差しで敦子を見下ろした。先ほどの女性店員は奥の部屋から二人の様子を眺め、敦子と目が合うと微笑んで会釈しまた仕事に戻った。

「はい。遅くなりすぎちゃったけど」
「ははっ。あ、ここ、いいですか?」

栞をさっと本に挟み敦子が手を「どうぞ」と前に差し出すと、スーツを着た店員は向かい側の席に小さな子供がソファーに座る時みたいにドン!と腰掛けた。

「お元気でしたかっ?」

店員はテーブルに腕を乗せてニコニコとそう言った。敦子はこの店員の人懐っこさに改めて感心し、若さゆえの可愛らしさに頬が緩んだ。

「はい、忙しくてなかなか来れなかったんだけど。あの時はホントにありがとう。助かったし、楽しかったし」
「またいつでも乗せてあげますよ」
「うふふ。あれ?今日は、バイト…」
「ちょっと忘れ物があって、取りにきました」

そう言いながら背もたれに深く寄りかかった店員のネクタイの結び目は少し緩んで、歪んでいた。

「髪も服装も前と全然違うからびっくりしちゃった。それ、どうしたの?」
「あ、これ?あれですよ、就活です」
「あーーー、そうかぁ。今大学…」
「3年生」
「そうよね、ならそんな時期よね」
「はい」
「どうですか?上手くいってる?」

それを聞いた途端、店員は口をへの字に曲げた後、急に頭をぐしゃぐしゃと掻きむしりながら「わー!」と叫んだ。突然のことに敦子はただ目を丸くした。

「お客さん…もう僕、だめだと思います」
「そんな、どうしたの?」
「向きません。全然無理。多分僕、会社勤めできないタイプ」

店員はまるで空気を抜かれた風船みたいに小さく、頼りなくしぼんでいって、敦子はその様が可笑しくてぷっと吹き出した。

「笑い事じゃないんです。本当に、僕は…自分でもびっくりするくらい、ダメです」
「就活の時はみんなそんな風に思い悩むものよ。大丈夫、必ずいい出会いがあるから」
「違うんです。僕はそれ以前の問題…六本木一丁目駅のはずが六本木駅で降りたり、今日は説明会の場所が支社なのに本社に行っちゃって」
「わぁ。それで説明会は、行けたの?」
「はい。偶然支社に向かう社員さんがいて、そのタクシーに乗せてもらいました」

敦子は今目の前で肩を落としている店員のその時の様子をありありと想像でき、きっと相乗りさせた社員は女性ではなかろうかと思った。

「逆に凄いじゃない。強運っていうか、そんなことなかなか経験できることじゃないよ。失敗も、早いうちに失敗できて良かったと思えばいいんじゃないかな」
「はい…」
「その社員さんの印象にも残ったと思うし。それに私が面接官なら店員さんのこと雇いたいかも。威勢がいいし、人に好かれそうだし」
「ホントですか?」
「うん。だからきっと大丈夫。これからはちゃーんと、前の日にしっかり確認するようにしよう、ね。さ、それより何か飲まない?珈琲で良かったかしら?」
「今日は僕はミルクセーキです」
「え?」
「疲れたり落ち込んだりした時はミルクセーキなんです」

いじけた子供みたいな顔をした上、抑揚のない声で「ミルクセーキが飲みたい」と言う店員があまりに可愛くて可笑しくて、敦子は申し訳ないと思いながらも口に手を当てて笑った。それを見た店員が不思議そうな顔をしたのを見るに、ウケ狙いの気持ちは少しもなかったのだろう。敦子は更に笑いが増すのを堪えながら女性店員を呼んでミルクセーキを二つ、頼んだ。

「お客さんも?好きなんですか?」
「ううん。多分私、ミルクセーキって飲んだことないと思う。だから気になったの。それに私もさっきまで疲れてて落ち込んでたから、今日は私もミルクセーキ」

店員は敦子をまっすぐに見つめて笑った。とても純粋で、皮肉っぽさとか意地の悪さとかそういうものが少しのかけらもないような笑顔で、敦子はまるで赤ん坊の笑顔を見た時のように心が洗われる心地がした。

「そう言えば確か、前はミックスジュースがおすすめって言ってたよね?」
「うん。でもあれは僕が働いてる時に頼んでください。僕が作るのが美味しいんです」
「ふふ、わかりました」

しばらくしてテーブルにミルクセーキがふたつ運ばれた。ぽってりと丸みのあるグラスにバター色の液体と浮かぶ細かい氷と真っ赤なチェリー。

「可愛い。しかもなんだか懐かしい感じ。飲んだことないくせに」
「ささ、飲んでみてください」

敦子はストローが入った薄紙の袋の端に切れ込みを入れ中から丁寧にストローを出してグラスに差した。店員はその様子を眺めながら袋の端をちょっと舐めた後テーブルにトンと叩いて突き破った。

「わ。あまーい」

店員はストローを咥えながら上目遣いで敦子の様子を伺っている。

「でも慣れると美味しいね。甘くて優しい味」
「気に入りました?」
「うん。言ってた意味、なんとなくわかったかも。店員さんは?疲れ、癒された?」
「うーん」

店員はまたソファに深く寄りかかり、ミルクセーキを飲む敦子を見つめながらふっと一瞬照れ笑いして「多分僕、これ飲む前からもう癒されてました」と言った。敦子はその意味を理解したが、特に気にも留めず微笑みだけ返した。

(つづく)

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