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シェフの愛

このビストロでアルバイトする女子は8割方、たとえ一瞬でも、恋をする。その対象は美男子のマスターやギャルソンである場合もあるが、圧倒的に厨房の男子である。若い女というのはどうやら、戦場のような厨房で真剣な眼差しで料理する男の姿に強く惹かれるようなのである。

あまりニコリともせず、いつも皆に緊張感を与えてばかりのシェフが、時折、仕事終わりのバイト(女子に限る)に余ってしまったクレームブリュレを「食べる?」と出してくれる時がある。クールな彼がスツールに半分腰掛け、バーナーで表面の砂糖をカリカリに焼き上げ、それを食べる女子に優しい微笑を見せた日には、どんな女子も帰り道、シェフのことを想ってしまう。そして皆必ず次回のシフトで彼の白くゴツゴツした手を目で追い、薬指を確認する。

料理人であるから、彼の薬指に指輪は光らず結局分からずじまい、店の誰かに聞かなければ知ることができないが、シェフユンギは既婚である。
彼は若くして愛する人を見つけ、結婚し、家庭を築いた真面目な男なのだ。

——

ユンギが帰宅するのは大体22時を過ぎる頃で、新メニュー開発の時期などは日付をまたぐ。だから、小学生と保育園の子を持つ妻が夫の帰宅前に寝てしまっていてもさして気にしない。家で簡単に食べたり時に晩酌し、ひとり寂しく布団に入るのが常であった。

ただ、この日、帰ると妻は起きていた。

「おかえり」
「おう、寝てなかったんや」
「うん。何か食べる?」
「簡単でええよ」
「残り物だけど」

妻は韓国料理を出した。

「ん?これ何?」
「じゃがいもチャグリっていう韓国料理。どう、美味しい?」
「うん、まあ、そうやね」
「ふふ」

ここ最近、妻は韓国料理にハマっている。それに、自分より遅く寝ることが増えた。

——

「ジョングガァ、お前最近楽しそうやなぁ」

バイトの春香と付き合い始めたらしいジョングクのことをユンギは最近いつもからかう。ジョングクは目を細くして恥ずかしそうに笑った。

「幸せか?」
「はい、幸せっす」
「お前、こういう時が頑張りどきやぞ、な?」
「はい!」

ユンギの妻も彼が下っ端コックとして働いていた時のバイトだった。負けず嫌いの努力家で、料理の才能もあるジョングクを過去の自分に重ね合わせていたユンギだから、ジョングクの恋愛も応援したい気持ちがある。

「シェフも奥さんと幸せですか?」
「なんやねん、変なこと聞くな」
「すみません」

——

妻は朝が早い。朝食を作り、子供を保育園へ送り、自分も出勤する。だからユンギが起きてくる頃には家はもぬけの殻だ。シャワーを浴び、朝の慌ただしさが想像される散らかった部屋を片付け、スマホをチェックしながらトーストとコーヒーだけ胃に流し込み出勤する。

ただ今朝は起きてすぐ無性に牛乳が飲みたくなって、寝癖のついた頭をボリボリと掻きながら冷蔵庫を開けるとペットボトルが何本も入っていた。

「紅茶...?こんな好きやったっけ...」

——

ある日のまかないの時間、ユンギは春香のハンカチに目がとまった。見覚えのあるキャラクターのハンカチだった。

「お、それ、うちにもそれのぬいぐるみがあるわ」
「あ、これですか?...奥様もお好きなんですね」
「ん?子供ちゃうん?それ...羊やろ?」
「アルパカです...」

春香が恥ずかしそうにするばかりなので、別のバイト女子が解説に入った。

「シェフ、これはBTSっていう韓国のアイドルのキャラクターなんですよ」
「ん?韓国?アイドル?」
「BTS知らないんですか?めっちゃ人気ですよ。7人組なんですけど、メンバーごとにキャラクターがあって、このアルパカはJINって人のキャラなんです。春香ちゃんもシェフの奥様もJINのファンなんですね」

それを聞いて、ユンギもジョングクも微妙な表情をした。

「どんな奴やねん、そのJINってのは」
「すっごいハンサムで...ちょっとオーナーに似てます。ね、春香ちゃん、似てるよね?」

それを聞いた瞬間、ユンギもジョングクも眉間にしわを寄せてオーナーを睨んだ。

「やー!俺は何も関係ないぞ!」

——

その日、帰宅すると妻は寝ていた。子供と寝落ちしてしまったのだろう、部屋が子供と遊んだままだ。絵本やら漫画やらを本棚に片付けていると奥に立派そうな本があった。取り出してみるとBTSの写真集である。中をペラペラと捲るとJINと書かれたページがあり、確かにオーナーによく似た美男子が写っている。

「…なんや、年甲斐もなく」

子供に挟まれて眠る妻を見ながら、自分が久しぶりに嫉妬心に駆られていることに気づいた。妻にとってユンギは初めての男のはずだ。妻は自分にぞっこんで、好きな芸能人とかそういうミーハーな面もなく、自分一人しか見ていないと安心していたのに。

翌朝、ユンギは早く目が覚めた。

「あれ?どうしたの、今日何かあった?」
「いや、ただ目ぇ覚めた」
「そう。子供と一緒にご飯食べる?」
「おう」

妻に好きなアイドルのことを問い詰めたい気持ちがあるものの、どう聞いて良いのか分からない。結局、心にうっすらとかかる靄のような嫉妬心を消すことができないまま、妻と子供を玄関まで見送った。

——

一旦気づいてしまうと、あのアルパカは街中、至る所で見つかった。それにBTSの文字もよく見かける。昨日YouTubeで見た音楽も聴き覚えがあった。相当流行っているらしい。ミュージックビデオを見てもどれが誰だかわからないが、オーナーに似ているJINだけはすぐに認識でき、その度に嫌な気分になる。自分の中の冷静な部分は、こんな若い異国のアイドルへ嫉妬するのは馬鹿げていると笑ったが、アルパカを見かけるたび、オーナーと話すたび、思い出してはイラっとしてしまう。

なんだ、この感情は。

・ ・ ・

「シェフ、何見てんるんですか」

休憩時間、スマホで「BTSメンバー紹介♡」なるサイトを見ていた時、ギャルソンに声をかけられた。

「なんでもない」
「今の、BTSでしょ」
「ん?あ、これな」
「シェフも好きになったんですか?」
「なんでやねん」
「僕は結構好きですよ」
「アイドルをかぁ?」
「はい…BTSは国連でスピーチしたり、結構激しめのラップ歌ったり、カッコいいんですよ」
「そうなんや」
「…シェフ、ちょっと嫉妬してるんでしょ」
「やかましい」
「なかなか手強い敵ですよね…シェフ、奥さんとデートとかしてますか?ロマンチックな時間、足りてますか?」
「だから、やかましいわ」

ギャルソンのテヒョンは言動が突飛で空気も読まないから苦手だ。しかし、彼がものすごくモテることは見聞きしており、ほんの好奇心でユンギは質問した。

「ロマンチックゆうても…どんなことするんや」
「知りたいですか?」

——

ビストロ休業日の朝、ユンギは誰よりも早く起きてホテルみたいな朝食を作った。いつも通りの時間に起きてきた妻はびっくりである。

「あなた、何してるの?」
「たまにはご飯作ってやろうと思ってな」
「どしたの、突然」
「ええから、ゆっくり支度してこい。あ、夕飯も俺が準備するから帰りも急がなくてええで」

妻が不在の間、家の掃除をし、食材を買い、ワインも買い、今夜は自分が家族のディナーを作ろうと意気込んだ。考えてみれば家族に食事を用意するなど今まで何度あっただろうか。料理人という仕事柄、家でまで料理はしたくなかったのだ。

妻から残業するかもと連絡があったので、心配しなくて大丈夫だと伝えた。夕方子供を迎えに行き、宿題をさせ、風呂に入れ、食事をさせ、寝かしつける。毎日この仕事をしている妻への感謝と尊敬の気持ちが溢れ、これまで彼女に甘えきっていた自分を反省した。

子供が寝た頃、妻は帰宅した。

「疲れたでしょう。今日はホント、ありがとう」
「おう、風呂も沸いてるから、入ってこい」
「もう...どうしちゃったのよ、一体」
「ええから。後で一緒に酒飲もう」

風呂上がりの妻がやけに色っぽく見えるのは疲れた体に酒を飲んで酔いが回っているからだろうか。ユンギは愛情表現は下手だが出会ってからずっと妻に一途だ。カッコよくて仕事もできる彼なので言い寄ってくる女も数人いたが、どんな時も冷たくあしらって来たことを妻は知らない。

「疲れたでしょ」
「おう、今日はマジで愛の苦労を知ったわ」
「ふふ、それは…有難いわね」
「愛、毎日ありがとな」
「もう。ホント、どうしちゃったの」
「ずっと夫婦の時間がなかったやん、だから」

「洗い物は私がやるね」と言って台所に立った妻の後ろ姿をぼんやり眺める。最近、ジョングクを見ながら昔を懐かしむことも多く、初めて出会って恋をしていた頃のトキメキを思い出すのだ。

それで、洗い物を終えそうな妻を背後からギュッと抱きしめた。

「今日のあなた、なんか変」
「ええから。行こ」
「うん」

——

翌朝ユンギはまた早起きし、家族と一緒に朝食を取った。そして、とうとうあの話を切り出した。

「あのぬいぐるみ、BTSなんやろ」
「えっ、BTS知ってるの?」
「うちのバイトの子もあれのハンカチ持ってんねん。JINっていう奴のなんやろ」
「やだぁ、あなた、詳しい」
「いつから好きなん?」
「最近なの。お友達に教えてもらってハマっちゃって。あなたには、内緒にしておこうと思ってたんだけどな」
「なんで」
「だって...恥ずかしいし、あなた、嫌かなぁって思って」
「ただのアイドルやろ?浮気心でもあるん?」
「全然そういうんじゃないよ」
「やろ?ならええやん」

すると愛はユンギに思い切り抱きついて頬にキスした。それを見た子供たちが「きゃー!ママ何やってるのー!」と騒ぐ。

「やっぱり、あなたって最高。大好き」
「なんでやねん」

——

その日、ユンギはコンビニでBTSのコーヒーを見つけた。

「高っ!なんやこれ」

そうツッコミを入れながら彼はJINパッケージのコーヒーを買った。今夜も妻の喜ぶ顔が見られるだろうか。


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