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夕映えの恋 6

第二章 日常の向こう側

早朝、テヒョンは寝巻きの上に革ジャンを羽織りベランダに出て一服した。朝焼けはパステル色でどこか春らしさを感じさせるものの、空気はまだ冷たく、吐いた煙は春風と共にすーっと流れて消えていく。一本吸い終える頃には冷え切ってしまった素足は温もりを欲して、テヒョンは部屋に入るや否やまた布団の中に潜り込んだ。

「もー、吸ってすぐ布団入らないでよー」

まだ半分寝ているような声で美咲は文句を言った。

「煙草の匂いきらい」

美咲が寝返りを打ち背を向けたのでテヒョンはわざと覆い被さって「はぁ〜っ」と息を吹きかけた。美咲は「やーだー」と手足をばたつかせ枕をテヒョンの頭にぶつけた。

「っって…コラッ!お仕置きだ」

そうして二人は狭いベッドの上で笑い叫びながら乱闘を演じ、最後は口で口を塞いで抱き合った。

美咲は大学の同期だ。半年前、彼女は学園祭の屋台でテヒョンが焼きそばを作っている時に客として現れ、その場で唐突に付き合って欲しいと告白した。ちょうどその頃テヒョンは前のカノジョと別れたばかりで女性に対し半ば投げやりな気分があり、周りにいる大勢の人の視線を感じながらその場で「いいよ」と答えたのだった。後から聞いたことには美咲はずっとテヒョンのことが気になっていて、カノジョと別れたという情報を知ってすぐに行動を起こしたのだという。背が低く華奢で小動物のような可愛い雰囲気の美咲が意外に積極的であることに、テヒョンは魅力を感じると共に時々妙な恐ろしさも抱いていた。

「ねぇ、就活はどーぉ?」
「ダメ、もう嫌んなった」
「嘘でしょ?まだ始まったばっかじゃん」
「つーか、マジで全くやる気出ねぇ」
「ちょっとさー、頑張ってよね」

就活というイベントを境に、二人の間には少しだけ溝が生まれていた。積極的で外交的な性格は二人の共通点であるが、テヒョンがおっとりとした芸術家気質であるのに対し、美咲は効率性や結果を求める向上心の強いタイプで、大学卒業後の進路を考えるに当たってテヒョンのものぐさな態度に彼女はずっと苛立ちを見せていた。ふたりの就活に対する熱意はまるで、卒業後もずっと一緒にいたいと考える美咲と、ふたりの将来をそこまで真剣には考えていないテヒョンとの乖離を表しているようで、そのことに薄々気付いている美咲としては彼のやる気のなさを見るたび、二人の関係の終焉を予感するようで嫌な気分になるのだった。

「美咲は?上手く行ってんの?」
「いや、だから上手く行くも何も、まだ何にも始まってないし」
「そうか」
「ねぇ、頑張ってよね。都内でちゃんと就職して一緒にいい部屋借りて暮らす約束でしょ?」
「ああ、うん」

美咲の実家は熱海にあり、入学当初は新幹線で通学していたが今は大学近くの学生寮に住んでいていつも自由にテヒョンの家に泊まりに来る。但し、私鉄沿線沿いのボロアパートは狭いしうるさいし汚いしで、美咲は他人の住まいながらしばしば文句を言った。

美咲は昨日着ていた服をさっさと着て、日焼け止めを両手で伸ばすとツバの大きいキャップを深く被った。テヒョンの家に泊まった次の朝は必ず、彼女は早いうちに自分の家に戻りシャワーを浴びて服も着替え、ファッション誌から飛び出してきたようなキラキラした女子に変身してから大学へ行く。テヒョンの家でずっとダラダラ過ごし一緒に登校するということを美咲はただの一度もしたことがなかった。彼女がこの家に来るのはあくまでもテヒョンを求めているからであって、テヒョンの住むこの家に対しては心も身体も遠ざけているような節がある。

「あ、そうだ。日曜にサークルの飲み会あるんだけど帰り寄るかも」
「日曜?」
「うん、月曜日は授業もないし」
「あ、ごめん、俺月曜の朝予定あるんだよね」
「大学で?」
「いや、違うけど」
「何の用?」
「ちょっと野暮用。美咲には関係ないやつ」
「ふーん」

美咲はもう玄関にいて、桜色の可愛らしいコンバースを履きながら何か含んだような視線をテヒョンに向けた後「じゃ、またね」と家を出た。

寝巻き姿で椅子に腰掛けながらテヒョンはしばらくぼーっとただ一点を見つめていた。部屋から美咲が去って静寂が訪れるといつも彼は物寂しさに襲われ、同時に心の奥の方で安堵した。美しい外見と明るく人懐っこい性格も手伝って、テヒョンはいつだって人に囲まれていた。男友達も多いし、隣には可愛らしい彼女が大体いつもいるものだった。しかし彼はここ数年、自分がおぼろげとした孤独に包まれていることを自覚している。その原因が何か、彼はなんとなく理解しているがそれについて考えるのは更に気が滅入るから避けている。そしてそうやって感情をおざなりにする日々を経て、テヒョンは時折自分自身、すなわち、自分の日常から逃げ出したい衝動に駆られるのだった。

(つづく)

ヘッダー: @urana_vagy様

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