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人気シェフ、恋の予感

ビストロのレセプションに豪華なアレンジメントが飾られている。カードには「祝4周年 La jiborara様 チョンホソク」とある。

「うち、4周年なんすね。なんか祝うんすか?」

花を見てジョングクがシェフに聞いた。

「何もやらんやろ。つーか、うちの開店日覚えてんの、こいつくらいや。オーナーだってすぐには答えられんぞ、多分」
「ホソクさん、すごいなぁ。マメっていうかプロっていうか」
「あいつは…少しおかしいんや」

吉祥寺駅南口の緑の多いエリアにフレンチレストランを経営するホソクはシェフの古くからの友人だ。彼らの関係について詳しくは誰も知らないが、ホソクは定期的にこのビストロを訪れるため、スタッフに彼のファンは多い。

ホソクのレストランは観光客がわざわざ足を運ぶような有名店で、丸の内に姉妹店も持っている。テレビに出演したりレシピ本を出版したりと、引く手数多の人気シェフだ。

彼の成功は、料理の腕前や企画力などは勿論であるが、人脈が最大の要因であろう。何しろ、彼は小さな縁も大切にし、よく気が利き、人を喜ばせることの達人だ。彼が周年祝いの花を送る先はこのビストロだけではない。人が「まあいいか」とスルーしてしまう小さな事柄にも関心を向け、最善の対応をし、縁を築き、それを活かす。出来そうで出来ないことをサラリとやってしまう、そういう人物なのである。

ホソクのこの性質は無論、女性に対しても同様であった。

女性の軽微な変化、例えば、髪の色を少し明るくした、前髪を切った、いつもと雰囲気の違うネイルにしてみた、バッグを新調した、香水を変えた…そういったことにもすぐに気づき、丁度いい塩梅で褒める。身近な人ならば誕生日に必ずお祝いをしてくれるし、イベントごとがなくても女が喜びそうな小さなギフトをさりげなく渡したりする。

彼の言動が罪深いのは、彼が基本的には寡黙な男であることと、一連の言動に一切の下心がないということだ。それ故、女たちはいつも先走り、ひとり満足し勝手に完結させてしまう。

まず、日頃から彼の優しさや気配りに触れ、女は勝手に彼が自分に気があると勘違いする。一緒に食事にでも行けば、レディファーストで下衆な話をしない彼に更に好感を持ち、聞き上手だが時折うわの空になったり闇が見え隠れする彼に女の方が前のめりになってしまう。遅い時間になれば彼は当然のように女を家まで送ってくれる。彼にその気がないから当然なのだが、女としては家の前まで来ておいて最後まで紳士な彼に夢中にならない訳がない。

ここまで来れば後は女の独壇場だ。

女はなんだかんだと不自然な理由をつけて彼と二人きりの時間を作り、いいムードを作り、彼に告白する。普段いたって普通な女でも、彼の優しさに包まれると自分は映画のヒロインであるという自己暗示で大胆な行動を取ってしまう。唇を重ねてしまえば更に厄介だ。彼は、上手いのだ。女は彼のキスに溺れ、今まで感じたことのない快感に包まれ、最上級の満足を得る。そして最終的には、自分一人でこの幸せを独占すればいつかバチが当たると、彼を美しい思い出として心の奥に大切にしまい、平凡な男の元へ行く。

ホソクにとって、女は嵐のようにやって来ては去るものであり、その恋物語において彼はいつも主人公ではなく主演女優の相手役だった。嵐に疲れた彼は、自分主体の、穏やかな凪のような恋愛に憧れた。

——

ホソクの一日は忙しい。オーナーシェフとは名ばかりで厨房に立つのは月に数えるほどしかないが、ここ最近はテレビや書籍の仕事、監修の仕事などが忙しく、2ヶ所あるレストランにも顔を出すとなると一日のスケジュールはびっしりである。それで彼は1年ほど前から、ホールスタッフだったユミを秘書として働かせている。

吉祥寺本店の一室にホソクのオフィスがある。彼は朝誰よりも早く出勤するのが常であったが、ユミを秘書に置いてからは二番目になった。まず一日のスケジュールを確認した後、朝のうちにルーティーンをユミと協力してこなす。メールチェックに始まり、関係者のお祝い事への対応、お礼状作成など、よく気が利き文才もあるユミにはかなり助けられている。

「ユミさん、年末はどうするの」

スマホのカレンダーを指で上下させながらホソクは素っ気なく聞いた。レストランは大晦日から三が日まで休みである。

「家で一人どん兵衛ですかね」
「はは。ダメだよ、それは」
「オーナーは?どなたかとご旅行とか?」
「いや、今年は一人で静かに過ごすよ」
「いつもお忙しいから、何もせずただ休むのが一番いいかもしれませんね」

秘書のユミはひどく落ち着いた女だ。昔から浮ついたところが少しもない。肌は色白できめ細かく、スッと整った顔立ちをしているのに、その生まれ持った魅力をメガネで隠し化粧の力にも頼ろうとしない。ホソクの周りに嵐の如く現れる女たちの対極にいるような女だ。

「ユミさんってさぁ、オープン当時からうちで働いてるよね…勤続、7年?」
「もうそんなになりますか」
「開店祝いはしてるのに、勤続祝いはしたことないね」
「普通しないんじゃないですか?大企業でもあるまいし」
「よし、じゃあ仕事納めの日、一緒にお祝いしよう」
「え…」
「だって予定ないんでしょ?」
「ないですけど…オーナーこそ、本当に何も予定入ってないんですか?それに、うちの開店記念日って2月ですよね」
「いいのいいの、一年の締めくくりに二人で美味しいもの食べよう」
「はあ…」

——

12月30日に年内最後のレストラン営業を終え、翌日の昼前にホソクとユミは残った事務仕事を終えた。今日はユミが普段のパンツスーツではなくワンピースを着てきたので、ホソクは朝から気分が良い。

「さてと。行こうか」

愛車の助手席のドアを開けようとしたその時、スマホが鳴った。ホソクは顔が見えない相手にも笑顔が伝わるほど感じ良く応対する。電話の向こう側から何度もありがとうと感謝する声が漏れて来た。

「ユミさん、ごめん。今日の予約、近藤社長に譲っちゃった」
「あらら」
「困ってたみたいで。ごめんね」
「仕方ないですよ。じゃあ、帰りましょうか」
「いや、それがね。社長が代わりに箱根に部屋を用意したって」
「はい?」
「ユミさん、一緒に行く?」

・ ・ ・

東名高速を走りながら、ホソクは助手席にいるユミについて思考を巡らせた。箱根の部屋、と言ったのだから、一泊旅行になることも同室になることも理解しているはずだ。ユミの性格なら「遠慮します」と即答するものと思っていたのに、彼女はなぜ付いてきたのだろう。行き先がリニューアルしたばかりの社長の旅館であると聞いて「ある意味仕事ですよね」と彼女は言った。彼女は男と二人で箱根に行くというのに、相手が自分だから無防備なのだろうか。それはそれで、癪である。自分を男として見ていないのか、それとも、意外に積極的なのか。考えれば考えるほど困惑し、気づけばユミのことばかり考えている。

夕日が沈む頃、旅館に到着した。温かい光でライトアップされた宿は、お忍びで訪れるカップルが喜びそうな艶っぽい雰囲気で満ちており、いくらその気がなくても横に恋人でもない女性がいるのは落ち着かなかった。女性のユミなら尚更居心地が悪かろうと、ホソクは妙な空気を生み出さないよう努めて明るく、でも自然体に振る舞った。それなのにユミは、

「オーナー、これ、どうぞ。お部屋のじゃなく大浴場に行かれますよね?」

と、男物の浴衣を渡し、至って普通にそう言い放った。ホソクは面食らった。彼女は本当に自分を男として意識していないのだ。そう思った途端、彼女に気を遣うことなど、もうどうでもよくなった。

「折角部屋に露天風呂があるんだから、ここで入るよ、僕は」

その瞬間、ユミは顔を真っ赤にした。そして、「私は大浴場の方に行きます。オーナーはごゆっくり」と言い残しそそくさと部屋を出ていった。ユミのうぶな反応に、ホソクはやっと満足した。

・ ・ ・

夕食は趣向を凝らした懐石料理だった。

「社長はこれをオーナーに食べさせたかったんですね、すごく美味しい」

浴衣姿のユミは完全にいつもと様子が違った。白い肌は桃色に上気し、まとめ髪からは湿っぽい後れ毛が出て、時折メガネを外すと女性らしい柔らかい表情が現れる。ホソクは美味しい料理を味わいながら、この後の一手について考えた。しかし、思えば彼は自分がイニシアチブを取って男女の関係を進めたことがなかった。いつも迫ってくる女に対応するだけだった。だから、今、このシチュエーションでどうしていいものか、判断がつかない。ホソクはユミを前に無口になった。

デザートを終える頃、ユミは左手首をチラッと見て、口元をナプキンで拭いた。

「では私は、そろそろお暇します」
「え?」
「この時間ならまだ間に合いますので」
「何に?」
「電車に...です」

ホソクには返す言葉がない。女性の心は大体わかっていると思っていたが、今目の前にいる女の思考回路に全くついていけない。

「今日、大晦日だよ。泊まってけば...」
「いえ...それは...」
「もう僕たち大人な訳だし」
「...オーナー、そういうおつもり...なんですか」
「いや、違う、そういう意味ではなく」
「オーナー…」
「う、ん」
「私はオーナーのこと、とても好きです。あ、そういう意味ではなくて、尊敬してます。でも、オーナーはちょっと言動が...女性を勘違いさせてしまうところが多いというか...つまり、もう少し気をつけた方がいいと思います。こんな、私みたいな女ですら、変な気になりそうです」

立ち上がろうとしたユミに、ホソクは惨めな男みたいに最後の言葉をかけた。

「本当に変なことは何もしないから、泊まっていきなよ」

ユミは困ったような顔をした。

「オーナーは誰かいないと寂しいんですか?」
「いや...うん、まぁ、大晦日だし」

ユミはクスッと笑った。

「子供ですか」

・ ・ ・

結局ユミと一緒に年越しした。ロマンチックなムードはゼロで、お酒を飲みながら、時間を気にせず、テレビを見たりお喋りしたりしていたら実家にいるような気分になった。でも、リラックスした雰囲気でいつもより笑顔が多いユミに対し心地良い胸の高鳴りを覚えた。

「オーナー、顔赤いし眠そうですね」
「いや」
「先に寝てください」
「いいよ、ゆみさんが先に寝て」
「オーナーが先に寝てくれたら、私、部屋の露天風呂に入りたいんですが」
「あ、そうか。じゃあ僕先に寝るよ」
「ありがとうございます」

洗面室の灯りが扉の隙間から漏れている。シャワーの音が止み静けさが来ると自分の心臓の音が聞こえた。身体は眠いのに、心臓が寝かせてくれない。結局ホソクは、ユミがベッドに入り静かな寝息を立てるまで寝たふりをし続けた。

ホソクは初めて、嵐のようにやって来る女たちの恋をする楽しさがわかった気がした。

——

翌朝、二人は旅館を早めに出て芦ノ湖に寄った。静かな湖面は鏡のように輝き、雪を被った富士山を綺麗に映している。今は朝凪であろうか。自分の横で静かに微笑むユミを肩に感じ、ホソクはこの凪のような関係はもうすぐ終わり、心地良い風が二人の感情を波立たせることを予感した。



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