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ギャルソンの恋の味

ビストロ「La jiborara」のオシャレな青壁は女の目を引く。ディナー営業時なら特に、店内から漏れ出る照明はいつかの映画で見たパリの街角を思い起こさせ、食事場所を決めていない女たちは「今夜はちょっと自分を甘やかそうかしら」なんて思って店の中を覗くのである。

その店内に、パリッとした白シャツに黒のベストと蝶ネクタイ、少し低めの位置でサロンエプロンをつけたギャルソンの姿が見えようものなら、女はすぐさま店頭のメニューボードを確認し、店のドアを開ける。このビストロにおいて、味を支えるのがシェフのユンギならば、雰囲気を支えているのはギャルソンのテヒョンと言っても過言ではない。

テヒョンは幼少期をフランスで過ごした。それだからか、彼にはフランス映画から飛び出してきたような異国的魅惑的な雰囲気がある。

柔らかい微笑みでテーブルまで案内し華麗に椅子を引く姿も、クールにメニューを取る表情も、瓶底を軽く持ちワインを注ぐ大きな手も、厨房でフランス語混じりにオーダーを通す低く響く声も、全て、女の客をうっとりさせ、「La jiborara」は彼女たちのお気に入りの店No.1に躍り出るのである。

「この名前で予約とっていただけますか?」

自分に自信があるような女は、テヒョンが会計に立てばここぞとばかりに自分の名刺を差し出し次の予約を入れる。名刺には決まって女の連絡先が追記されていた。

「かしこまりました」

テヒョンはニコッと笑顔を見せたり、時にウィンクしたりもする。こうしてこの店のリピーターは日々増えていく。

——

「ギャルソンがお酒飲めたら、鬼に金棒なんですけどね〜」

最後の客が帰った後、ホールスタッフのアツが片付けしながらそう言うと、テヒョンは冗談っぽく「グサッ」という風に胸に手を当てた。

「今日のあの弁護士さん、美人でしたよね。デートするんですか?」
「しないよ」
「嘘だぁ、なんか、いい雰囲気でしたよ」
「アツ、覗き見しちゃダメだよ」
「だってー、私だってギャルソンとデートしたいのにっ」

テヒョンは笑いながらシッシッと手を払う。アツは他のスタッフの前でも開けっぴろげにギャルソン好きを公言する。しかし、テヒョンを含め、皆それを彼女のネタとして軽くあしらう。

彼女は若いが、明るくしっかり者でスタッフの間でも人気がある。それに、制服の着こなしが垢抜けて媚びない雰囲気は女性客にも好感を持たれるらしい。何しろ、彼女はテヒョン狙いの女性客を瞬時に見抜き、自然な流れでテヒョンに対応を任せる。つまり、客にとっては彼女は味方と映るのだ。彼女は少々鈍感なテヒョンを店の売り上げに貢献させる大事な人材であった。

「やー!やー!」

事務所からオーナーが現れた。

「アツ、お前のおかげでうちの売り上げは絶好調だ」
「うわっ!ボーナス、期待してますね」
「おう。来年も頼んだぞ。あれのおかげで広告費も削れそうだ」

オーナーはアツの肩に手を置き強く揺すった。意外とシャイなオーナーの性格を考えれば、これは最大限の感謝表現であろう。

オーナーの言う「あれ」とはアツが始めた店のインスタグラムのことである。店のアカウント自体は元々あったのだが、その中身は釣った魚や中途半端な料理や店内の写真などで全く機能していなかった。コロナが流行り出し状況が悪化していった頃、アツはインスタを自分に任せてほしいと名乗り出た。彼女はスタッフの顔出しを行い、ストーリーや質問箱などの機能を使ってよりインタラクティブな情報発信をし、それは成功した。

「うちはユンギの腕とテヒョンの顔とアツの頭脳があるから安泰だ!」

ここ最近オーナーは口癖のようにそう言うのだが、テヒョンはそれを聞くたび少し傷つく。

——

テヒョンはビストロから徒歩10分ほどの場所に住んでいる。部屋はまさに男の一人暮らしといった趣きで、ハンガーラックに洋服が無造作にかかっていたり、キッチンにゴミ袋が分別した分だけ置かれていたり、雑然としている。部屋を見れば、彼に特別な人がいないことは明らかだった。

「はぁ〜」

大きく息をつき、テヒョンは帰りにコンビニで買ったカップラーメンを取り出した。

このところ、彼は自分の将来について悩んでいた。彼は一介のギャルソンに過ぎない自分に対し不安があった。フランスに住んでいたことがあると言ってもそれは3歳までであり、フランス語は勿論、英語すら話せない。酒に弱いためソムリエ資格を取るのも難しい。今は羨望される外見を生かし仕事しているが、そのうち歳を重ねてこの美貌にも翳りが見えてくるだろう。その時に、自分には何が残るのか。

彼は恋愛からも遠ざかっていた。「女たちを惑わすギャルソン」という仮面を被っているようで、それに疲れていたのである。積極的且つ魅力的な女性客とデートすることはこれまでに何度かあったが、フランス映画に憧れるような客とのやり取りは彼にしてみればサービス残業でしかなく、彼自身が夢中になれなかった。

「あなたの部屋に行ってみたいわ」

なんて耳元で囁かれた日には、彼は喜ぶどころか鳥肌が立つ。見た目と現実との乖離。すなわち、彼の武器であるはずの美貌が彼を悩ませているのであった。

——

新年最初の営業日。テヒョンがいつものようにダルそうに歩いていると、路地から突然アツが現れ、ポケットに手を突っ込んだ彼の腕をガシッと掴んだ。

「ギャルソン!」
「うわっ、びっくりした」
「デート、デート行きましょう」
「なんだよ、朝っぱらから」

アツはバッグから大事そうに1枚の紙を取り出した。

「これ!見てください!」

見ればそれは年末ジャンボ宝くじである。

「え?まさか?」

アツはうんうんと頷く。

「マジで!?」
「組違い賞!1等じゃないけど、10万円!これで、デート行きましょう!」
「10万...自分に使いな」
「いいの!私、ギャルソンとどうしてもデートしたいの。ね?全部奢るから、お願い!」

瞳をキラキラさせてまっすぐに自分を見つめる彼女を見ていたら断ることなどできなかった。次の休業日、二人はついにデートすることになった。

——

昼下がり、アツと銀座で待ち合わせした。「銀座っぽい服着て来てくださいね」と前日に言われて困ったが、美しい彼はシンプルなニットにロングコートを羽織るだけで十分見栄えした。

アツも黒いコート姿で巻いた髪を下ろし、いつもよりだいぶ大人っぽく色気がある。

「私たち、めっちゃお似合いのカップルじゃないですか?」

テヒョンは顎に手を当ててアツを舐め回すように見た後、親指を立てた。

「やったぁ」
「でも、それヒール高すぎない?」
「これが今日一番のポイントですよ!」
「へー」
「ほら、色気、出てるでしょ?」

そう言いながらアツはコートのスリットから脚を出して見せた。パンツスタイルのアツしか見たことがなかったから、透け感のあるタイツを履いた彼女の美脚に少しドキドキしてしまう。

「人に見られるよ」

テヒョンはアツの腕を引っ張り歩き出すが行き先がわからない。

「で、どこ行くの」
「へへ、こっちです!」

着いた先はプラネタリウムだった。アツはすでに席を予約したらしく、その席は大きな円型のペアシートだった。

「え、こんな席…」
「いいじゃないですか!デートなんだし。ほら、ギャルソン、こっち座って」
「あのさぁ、デートなのにギャルソンって」
「じゃあ、テヒョンさん?」
「うーん」
「テヒョンオッパ♡」

はぁ、とわざとため息をついたが、頬は緩んでいた。可愛い妹のようだし、気心も知れているので居心地が良かった。ふかふかのベッドみたいな席に横たわって満天の星空を眺めていると、気持ちも落ち着き、思わず大きなあくびをした。

「オッパ、寝てもいいよ」

耳元でそんなことを囁かれたら、これまで妹のようにしか思っていなかったアツを女として意識してしまう。でも、悪くない。

プラネタリウムの後ウィンドウショッピングを楽しむうち、夕日の名残はもう消えて、いつの間にか目の前には煌びやかな夜景が広がっていた。すっかり距離感を縮めたアツはテヒョンの腕にそっと手をかけて歩いている。

「ここです」
「ここ?ホント?大丈夫?」
「多分、大丈夫です…多分…ね」

アツが予約した店はさほどグルメでない彼でも知っている高級寿司屋だった。カウンターしかない小さな部屋には、同伴で来ているクラブのホステスらしき客が2組と品のいい夫婦と自分たちしかいない。明らかに場違いな気がして、テヒョンの表情はこわばった。しかし、いつも店でやるように慣れた手つきでアツの椅子を引いて座らせると、店にいる人々の視線が変わったように感じた。

「大丈夫、ここの雰囲気に全然負けてませんよ」

アツが小声でそう言った。

斜め前にいるホステスらしき客は横に座る脂っぽい中年の連れの話に頷きながら、何度もテヒョンの方を見ては羨ましそうな顔をする。横を見るとアツも嬉しそうにテヒョンを見て微笑み返した。尻込みする必要はないと思えてしまえばあとは悦びしか残らない。二人はうっとりするほど美味しい小さな芸術品を思う存分味わった。

・ ・ ・

「大丈夫だった?」
「見事に全部なくなりました。すっからかん」
「すごいね」
「すごい世界!でもめっちゃ美味しかった」
「そうだね」
「はぁ。にしても一瞬ですね、ホントに」

ふたりはそのまま有楽町駅へ向かった。駅構内の蛍光灯の光を浴びて人混みの中に入ると一気に現実に引き戻される。二人は中央線に乗り換え、隣同士に座った。

「あそこにいたお客さんたち、みんな一食10万円に見合う『大人』なのかな...」

電車に揺られながら、アツはふとそんなことを呟いた。

「うん…まぁ、そうなんじゃない?」
「でも、私たちだって一食に10万使える人に見えてたかもしれないじゃないですか」
「どうだろうね」
「きっとそうですよ。ギャルソン、あそこにいる誰よりも素敵でしたもん」
「ハハ」
「カウンター席しかない、メニューのないお寿司屋さんって『大人』って感じですよね」
「アツ...その歳でまだ『大人』に憧れてるの?可愛いな」
「へへ。私、昔から夢見がちで、14の頃は17歳ってどんなに素敵だろうって憧れたし、17になったらハタチになれば世界は変わるんだろうって思ってたし、いつだって大人に憧れてるんです。でも、今もう24だけど、まだあの頃夢見てた大人じゃないんですよね...あんなすごい店でお寿司食べたけど、でも結局17歳の頃と中身は大して変わってないっていうか...」

テヒョンは横に座るアツの顔を覗いた。

「17歳の私は今の私を見て、大人だなぁって感じるのかな…だとしたら、見えてるものって全部、幻みたい」

電車が新宿に着くと半分くらいの乗客が入れ替わった。先ほどより若い客が増え、車内はより騒がしい。

「俺にもそういうの、感じるの?」
「え?」
「俺に、大人だなぁ、いいなぁ、って感じたりするの?」
「うん、そうですね」
「だとしたら、幻かもね」
「ふふ、そうなんだ」
「っていうか、目に見えるものは大体幻なのかもね…あのさ、俺、うちのお客さんと何回かデートしたことあるんだけど」
「あー、やっぱり」
「毎回思ったのは、みんな自分の夢とデートしてるんだよ、俺とではなく」
「夢?」
「うん。デートした後、女の人は俺が好きだって言ってくれるんだ。すぐに。そんな簡単に俺という人をわかるはずないのに。でも確かに幸せそうなんだ、デートの最中も」
「はぁー、モテ男だぁ」
「だけど俺はいつも全然楽しくないの。デートしてる時の自分が偽物っぽくて好きじゃないの。だから結局、俺はこの人を好きじゃないんだな、ってわかるわけ」

アツは小さく数回、頷いた。

「だからさ、見えてるものが幻だったとしても、楽しいとか幸せとかの感情は嘘じゃないんだよ。17でも24でも、安くても高くても、お寿司が美味しいなぁって気持ちは変わらないんだよ」

アツにそう言いながら、自分も悩みすぎていたのかもしれないと、少し心が軽くなった。

「…ちなみに私、今日めちゃくちゃ楽しかったし幸せでした」
「じゃあ、いいじゃん」
「ギャルソンは?」
「俺も…楽しかったよ」

・ ・ ・

テヒョンはアツを家まで送った。人通りの少ない住宅街を歩きながら、自分を大人と思ってデートに誘った彼女を想うとふっと笑みがこぼれた。

「うわぁ、今日は星が綺麗」
「ほんとだね」
「銀座は星なんてなんにも見えなかったのに」

空を見上げた後、二人の視線はぶつかった。

「デート、終わりだね」
「はい...すっごく、幸せな時間でした...ギャルソン、ありがとうございました」

律儀にお辞儀したアツをテヒョンは無言のまま見つめた。強い眼差しを向けられた彼女は瞬きもできないまま、その瞳は輝いている。テヒョンは一歩一歩近づき、アツの長い髪を耳にかけ、代わりにマスクのゴムを優しく外した。恥ずかしそうに少し俯いた彼女の顎を軽く持ち上げ、ゆっくりと、唇を重ねる。ふたりは星空の下でお互いの体温を感じながら、何よりも甘い大人のデザートを味わった。


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