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配達人の恋

このビストロでは、まかないの時間に定期的に上がる話題が3つある。ひとつは「オーナーはなぜ結婚しないのか」(但しこれはオーナーが不在の時のみである)、次に「女連れの常連客は何者か」、そして「卸の兄ちゃんは何故卸の仕事をしているのか」である。

ここに食材を配達に来るナムジュンのことは、このビストロの全員が一目置いていた。彼の凄さにまず気付いたのはシェフだ。食材の補充をすべくあれやこれやと必要なものの数を呟いていた時、ナムジュンはメモなしで全て覚えて復唱した。ギャルソンも、以前英語しか話せない客が来て困っていた時に流暢な英語で代わりに応対してくれた彼のことが忘れられない。

「あいつ、多分凄い奴やろ。なのになんで配達なんかしてるん」
「高学歴は寧ろ仕事なくて困るって前にどっかで聞いたような」
「いやぁ、それにしても勿体ない」

ビストロ「La jiborara」の面々はまだ知らないが、ナムジュンはつい最近まで大学院生だった。文学部で哲学を研究していた。そこに新感染症のパンデミックが起き、彼は大学院を中退した。

中退後すぐ、知り合いのつてで食品卸会社の契約社員として働き始めた。彼の学歴ならもっといい企業もあったであろうが、何せタイミングが悪かったし、彼はオフィスでPCを睨む仕事ではなく「労働」がしたかった。運転免許取得のために大学2年生の夏休みを棒に振ったこともようやく意味を持ったし、今まで触れ合うことのなかった世界の人たちと日々交流することができた。自分の決断を、デカルトが「書物という世界でなく世界という書物を探求する」と宣言し実践したことに重ねていた。何も知らぬ家族や知人は彼の選択を「勿体ない」と評したが、その言葉を浴びる度、彼は哲学専攻らしく、その「勿体ない」が何を意味するのかの思索に耽った。要するに、彼は今の生活に十分満足していた。

ビストロ脇の路地に車を停め、ダンボールを取り出そうとした時スマホが鳴った。担当教授からのメールだった。

《お元気ですか。君がここを離れてからもう一年が経とうとしています。是非今度こちらに顔を出してください。いい話もあります》

ナムジュンは遠くを眺め、小さく息を吐いた。

ビストロはまだランチ営業中だった。裏口に回り、品物を届け、長居せずすぐ車に戻った。エンジンをかけようとした時、サイドミラーに見覚えのある顔が映った。淳子だ。

ナムジュンはためらうことなく車を降りた。

「淳子、だよね?」
「あ…え?ナム君?」
「やー!久しぶり!」
「ホント!」

淳子の連れに挨拶しようと周りを見たが、彼女は一人だった。

「一人ランチ?」
「ううん。さっきまでいたんだけど先に帰っちゃったの」

そして二人は連絡先が変わらないことを確認し、金曜の夜にまたこのビストロで会うことを約束した。

淳子は大学時代の友人だ。気が合いすぎて恋愛には発展しなかったが、お互いに好意を持っていたとナムジュンは信じている。それに、一緒に見たアメリカ映画に影響されて、28歳までに二人とも独身なら結婚しよう、なんていう子供じみた誓いも交わしていた。ナムジュンは今26歳だ。

——

約束の金曜日。強い寒波が来ているらしく午後から急激に気温が下がった。風も強く、ナムジュンは膝下まであるコートのポケットに手を突っ込み、首をすくめて足早に店へ向かった。

店内に入ってすぐに淳子を見つけた。モヘアのニットは照明が当たってキラキラ輝いており、こちらを見て微笑む姿はやけに色っぽかった。彼女と夜中まで語り合ったあの頃から時は過ぎ、自分ももう大人になってしまったのだな、なんてしみじみ思った。

「ひぃー、寒いな今日は」
「うん、寒いね!」
「待った?」
「ううん、さっき来たばっかり」
「良かった。さて、何頼もうか」

メニューを開いてナムジュンはすぐに降参モードになった。アペリティフ?テリーヌ?ビネグレット?コンフィ?ポワレ?思い切り眉間に皺を寄せた後、ナムジュンはメニューを閉じた。

「ダメだ...!」
「ははは、ナム君、大人の男としてダメだぞぅ」
「淳子はわかるの!?」
「まあね。じゃ私が適当に頼んでおくね。魚介ダメなんだよね、ナム君は」
「おー、よく覚えてんな!」
「へへ」

淳子のテーブルマナーは完璧だった。冗談を言い合ったり喧嘩したりしていた友達がいつの間にか自分を追い越してお姉さんになってしまったようで、寂しいような憧れるような、妙な感情を抱いた。それでも、数年ぶりの再会なのに二人の息はピッタリ合った。前菜、スープ、メインまでずっと会話が途切れなかった。

「さすがだな、淳子。バリバリやってんだね」
「うん、おかげさまで、独身貴族満喫中」
「すごいなー、俺なんてすっげえ地味な生活してるから憧れちゃうよ」
「ナム君はね…まさか大学を離れちゃうとはねぇ。でも、今のナム君、前に会った時...大学卒業した次の年かな?みんなで集まったことあったよね。あの時より、なんかキラキラしてる」

淳子が「勿体ない」という感想を述べなかったことにナムジュンは満足した。やはり、淳子はあの頃自分が好きだった淳子のままだと、そう思った。

ギャルソンが何か言いたげにデザートを出し、ナムジュンにウィンクして去ると、淳子がクスッと笑って呟いた。

「ナム君さ、今、彼女とかいるの?」
「いないけど、どうして?」
「昔した約束、覚えてる?」
「ああ、あれね。28歳のね」
「ふふ、覚えてた」
「いや、この間会った時に思い出してさ」
「私も」
「淳子は?誰かいるの?」
「…いない、かな」
「え?なんで今ためたの?」
「うん、まぁ、色々あるんだよ」

淳子の寂しそうな顔が気になったが、二人はその後も昔のようにぽんぽんと会話を弾ませ、声がかすれてしまうほどに楽しく時間を過ごした。

ビストロを出て冷たい風に吹かれると、すぐに淳子は「寒いから隣の飲み屋に入ろう」と言った。それで結局終電がなくなる時間まで飲み続けた。

「淳子、お前、マジでいいよ」
「何それ、何言っちゃってんのよ」
「大人の女って感じじゃん、マジで。やばいよ」
「え?もしかして誘ってる?」
「いやいやいや、それはないから」
「なーんだ」
「え?」
「私ちょっとトイレ行ってくる」

少し飲み過ぎたなと店員に水を貰い、ぼーっと枝豆の皮を見ていた時だった。淳子のスマホにLINEが入った。十数秒おきに、何通も。

トイレから戻った淳子はスマホの通知を見て、無表情でしばらく読み、ため息をついた。

「誰?会社の人?」
「あー、うん」
「…そう」
「ナム君、私さ、このところ夜が毎晩辛くて毎晩飲んでてさ...」
「どうして」
「…今の……いや、なんでもない」
「…」
「でも、今日は最っ高に楽しかった!さてと、そろそろ帰ろっか」

外はさらに寒さが増していた。やっとタクシーを捕まえ別れの言葉をかけようとすると、淳子はナムジュンを車内に引っ張った。

「うち来て、すぐそこだから」

——

ナムジュンの家の倍ほどの広さの1LDKには、趣味のいい家具と所々に海外で買って来たような個性的な置物がセンス良く並べられていた。半分開いたドアの奥を覗くと大きめのベッドがあり、ナムジュンは緊張した。

「はい、どうぞ」と淳子は酔い覚ましのドリンクを渡した。

「こんなもんが家にいつもあるのかよ」
「ほんとだよね、ダメだよね、私」

缶を開けた時だった。部屋のインターホンが鳴った。瞬間、淳子は体を硬直させた。そして、一瞬ナムジュンを見つめ、玄関へ向かった。ドアを開ける音と共に男の声が響く。

「なんで返事しないの」
「...帰って。もう来ないでって言ったでしょ」
「誰か、来てんのか?」
「うん。彼氏ができたの。だからあなたとはお別れ」
「はぁ…そうやってお前は…また明日連絡するよ」
「だめ。私、着信拒否にするから。もう連絡しないで」

会話は全部筒抜けだった。
部屋に戻り、淳子はナムジュンのいるソファにドサっと座った。

「大丈夫?」
「うん…ゴメン」
「いや…あれ、誰?大丈夫?」
「…付き合ってたの。奥さんも子供もいる人と」
「…」
「別れたいのにずっと別れられなかったんだけど...今日ナム君のおかげでやっとできたかも…」

ナムジュンには返す言葉がなかった。やはり、自分は世界を知らなかった。今、男女の世界という分厚く難解な書物を初めて紐解いたような、そんな気持ちになり、無知で無経験な自分を恥じた。

「俺、そろそろ帰るわ」
「遅いし、泊まっていきなよ」
「いや…」
「ソファでも寝られるし」
「…いや、明日もあるから...」

ソファから立ち上がり帰ろうとすると、淳子がコートの裾を掴んでいる。見ると、淳子は心細そうに捨て猫みたいに小さく震えているようだった。

「泊まって欲しいって言ったら、困る?」

ナムジュンはまたソファに腰掛け、淳子を見つめ、微かに震える両肩を強く掴み、ゆっくり顔を近づけた。淳子の瞼が閉じるのを確認し、唇を重ね、離す。肩を掴む力に比べると優しすぎるキスだった。鼻と鼻がくっつきそうな距離で二人は目があった。沈黙。痺れを切らしたように淳子は自分の唇を押し当て、ナムジュンもそれに応えた。

二人は本能のままに、目的地もわからぬまま、柔らかく温かい口づけに浸った。

——

コーヒーの香りで目が覚めた。リビングへ行くと、大きめのトレーナーを被り、髪をまとめ、メガネをかけた淳子がいた。

「あ、起きた」
「うん、おはよう」

淳子は無言でコーヒーを渡した。マグカップは淳子の手にあるものと色違いで、うっすら渋が付いている。

しばし無言が続いた。淳子が小さな音量でかけている音楽がいやに耳に響く。

「まだ好きなんだね、サカナクション」
「うん、好き」
「いい歌だね」
「...忘れられないの」
「ん?」
「この歌、忘れられないのってタイトル」
「あ…うん…」

淳子の柔らかい肌の感触がまだナムジュンに残っていた。しかし、なぜだか昨夜のことは全て夢だったように感じられ、二人はそのことに触れないまま何事もなかったように別れた。

——

ナムジュンは家に帰らず、大学へ向かった。教授との約束があったのだ。たった1年ぶりだが、大学の門をくぐると昔の記憶やその時の感情がぐんぐん蘇った。昨夜肌を重ねた淳子との甘酸っぱい思い出も、鮮明に。

「どうだい、社会人生活は」
「はい、研究とは全然違いますが、ある意味で毎日が勉強です」
「うん、君らしいな」

担当教授はナムジュンが研究の世界を離れるか悩んでいた時、いつでも戻っておいでと背中を押してくれた人だ。封建的な学術界において自由な考え方ができる教授を、ナムジュンは信頼していた。

「今日君を呼んだのは、編纂の仕事を頼みたいと思ったからなんだ。急ぎではないから、こうして週末とかに、ここで手伝ってもらえないだろうか。勿論時給も出す」
「でも...研究室にも希望者がいるんじゃないですか?」
「僕が、君にやってほしいんだ。外の世界を見ている君に頼みたい仕事なんだ」

久しぶりに向き合う哲学の世界は、以前とは全く景色が違っていた。美しく理路整然と並んでいた文字たちがモノクロからカラーに変わったくらいに、全ての言葉に命が吹き込まれたように感じられた。

「俺が変わったんだな...」

——

夕方、ナムジュンは淳子のマンションの前にいた。ピンポーンとインターホンを鳴らす。淳子は不在のようだ。

駅の方へ歩いていくと、向こう側から買い物袋を下げた淳子が歩いてくる。目が合うと、早足で駆け寄ってきた。

「どしたの?忘れ物でもした?」
「いや...まぁ、そう。忘れ物」
「あれ?なんかあったっけな?」

マンションへまた歩を進めた淳子の手首をガシッと握ると、ナムジュンは重そうな買い物袋を奪い、代わりに持っていた紙袋を差し出した。

「なにこれ?...ペアマグ?」
「今使ってるの捨ててさ、これ使おう。俺と」
「え...?」

淳子は夕陽に照らされ立ち尽くしたまま、瞳は琥珀色に輝いている。

「俺はメニューも読めないような男で淳子には物足りないかもしれないけど、でも、学生みたいに淳子と夜中まで喋ったり、美術館行ったり、映画行ったり散歩したり、そういうことは、できる...。28になる前に、俺が結婚できる男かどうか、試してみて貰えないかな」

淳子はゆっくり近づき、背の高いナムジュンの頬を優しく撫でた後ムニュッとつまんで言った。

「最高」

二人は微笑み合った。沈みかけの夕陽が長く引き伸ばされた二人の影を地面に描いた。

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