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300年以上ぶりの夏至イブで、2020年最後の幸運日に未来の種をまこう

あと5時間ちょいで終わる今日は、2020年最後の幸運日らしい。
一粒万倍日と、天赦日と神吉日の重なるこの日。
種まきするのによい日とされるこの日に、とある宣言をしようと思う。
どんな宣言か。
「令和は、両A面生活します」である笑
なんだそれ。

西陣の拝み屋は、実はずっとc/wだった。
靈の分野を扱う「えみこ」という面と、クリエイティブを行う「美惠子」が常に存在していた。
その発端は、出生児に本来付けるはずの名前を大人の事情で取り上げられたことに起因する。
リアル千と千尋だね、よくそう言われた。
わたしに限らず、臨床現場でたまにリアル千と千尋の方にお会いする。
名は体を表す、名前はその人の人生を右にも左にも振り回す力を持っている。
えみこ、という「しめい」を封印され、見えない世界との縁がないまま生きていた。
しかし、宿命は運命を凌駕するものらしい。
13歳のとき、これまた大人の事情で見えない世界に放り込まれる。
傍迷惑な話であるが、この経験がいまの独自論の礎になるわけだから、人の人生に無駄はない。

とにかく、大人の事情である意味歪められたわたしの人生。
しかし、晩年になるに従い、その運命の骨格がみえてくる。
人間は折り返しゼロにして、死んでいくと思っている。
人のお役に立つ使命を持ち生まれ、そのための準備をする。
やがて、準備したことを世に施し天に還っていく。
この折り返しが、寿命を80年として、だいたい40〜45くらい。
それが、臨床の現場から割り出した平均サイクル。
故に折り返しを過ぎても社会還元の軌道に入らないと、人生が圧迫されてくる。
また、還元率が悪くても、同じ状態になる。
「えみこ」の仕事は、ご依頼人の還元軌道と還元率のチェックを守護霊やガイドに行なうもの。
元来、守護霊とされるものは、ここを一番管理している。
人を守護するのは、その人間の使命を守るためであり、人を守るためではない、それが、えみこ論。
たまに「わたしにも、守護霊いますか?」って訊く依頼人がいる。
「いますよ」と答えるが、同時にその人の守護霊に(しっかり管理しなよ、信頼関係できてないね)とツッコミも忘れない。
えみこが居る見えない世界は、実に官庁的な組織体系ができた世界なのである。

コロナ禍があり、西陣の拝み屋は脳科学コーチングに舵を切った。
そのタイミングで監修していたセッションがリリースされたことも、理由として大きい。
この17年間療術だ、鑑定だといわれてきた大半は脳科学コーチングに近いし、ならいっそ、そっちに行けばいいじゃん、となった。
でも、この領域の担当は「美惠子」。
そうすると、「えみこ」を後ろに下げなきゃならない。
物書き、オリジナルグッズの制作販売、公立小学校向けオリジナル教材販売。
「美惠子」はいつも、ないものを生み出す。
セッションの監修も、やっているのはきっと美惠子。
左脳的な分析と、どこにもないを作り出すことは彼女の大好物だから。
そちらに偏ると、たいがい見えない世界は封印される。
「そんなもん、誰が信じるんだよ」という言葉が、美惠子は大嫌いだから。
結果、今回もあっさり「霊媒師辞めます」と来た。
別にここにはお互いに異論はない、えみこだって霊媒師でいたいわけじゃない。
御祓はできないし、したくない。
でも。
亡くなった方の想い残しは、昇華してあげたい。
そこには美惠子も賛同しているから、この6月から故人の通訳専従に落ち着いた。

もう何年こんなことしているんだろう。
コロコロ入れ替わる二つの世界、管理は年々複雑さを増す。
一年前、関東のある仕事仲間が言った。
「あなたのバージョンを上げてあげるから。これは神様のご意志なのよ」
友だちも少なく、信頼できる仕事仲間もいない中で、その人は唯一わたしとよく似た世界を生きている人だった。
後でわかったことだけど、それこそ実は「大人の事情」だったのだ。
大人の事情は、運命を壊す。
二つの運命は壊され、ぐちゃぐちゃにされ。
えみこと美惠子の絶妙なバランスは、粉々に壊されてしまった。
もう誰も信じるもんか、と、必死にバランスを立て直したこの一年。
皮肉なことにコロナ禍がいいアライメント期間となり、その間にすっかり美惠子がリーダーになり、反対にやっと自由を手にしたえみこは再び窓際に押しやられた。
別に、それでいいと思っていた。
でもなぜか、いつも心に黒いやりきれないものが渦巻いていなくならなかった。

どんな人にでも守護霊は居り。その人間とともに生まれ落ち、その人間とともに使命を守る。
彼らは一蓮托生、人間が不出来に天に還るとき、守護霊もまた格を落としてしまう。
だから彼らは、辛抱強く役目を果たす。
使命と人間を、使命感を持ち守り抜く。
何度も何度も。
昨日は、まさにそんな日だった。
何回もあり得ない勘違いをして、観ることを諦めかけたある映画。
その流れこそが、なにかを堰き止めている気がした。
(迷ったらやる、だよ)
そう言い聞かせて半ば無理やり劇場に飛び込んだのは、上映開始の10分前。
そこには、まさにいまの自分がいた。
あの映画のエンドロールで泣くのは、きっとわたしくらいだろう。
どちらも消さない、それでいいんだ。
表も裏もなくて、両方いて、わたしだから。
両方が共存できる道を探せばいい、きっとそれだけなんだ、って。
わたしの脳内にもきっと、なにか起きているんだろうな。そう思えたから。
(脳には、誰も敵わないよぅ)
ふと、脳内で美惠子がそう呟いた気がした。

明日は300年以上ぶりの夏至。
前日の今日は今年最後の吉日。そんな日に、数ヶ月ぶりにお師匠さまの謡会があった。
一番目の「神歌」は、能の演目「翁」が歌われたもの。
能にあって、能にあらずとされる翁は神事であり、明るい未来の予祝するおめでたいものらしい。
お師匠さまは、ご縁をいただくきっかけとなった「賀茂」を舞われた。
伝統芸能にも、お能にも、まったく縁もゆかりもなかったわたしが2年前、この「賀茂」が縁でお稽古に通うようになる。そんな出会いを、邂逅するような時間だった。
昨日は昨日で、新たに自らを鍛えてくださると思える方にご指導を願い出た。映画を観たのは、そのすぐあと。
守護霊と呼ばれるものの本気は、これくらいの芸当なら軽くやってのける。
知らぬは人間ばかりなり、そこに気づけば案外人生は小説より奇なり過ぎている。

ひとつの身体に、一人じゃなくてもいい、という発想。
いろんな事情で分裂しちゃったら、それはそれ。
堂々とそれを選べばいいし、全員がA面で構わない。
ただ。
普通、という杓子定規を使うことは、その瞬間手放さなければならない。
それに気づけて、しかも今日気づけて、本当によかった。

300年以上ぶりの夏至には、冥土の皆さんが大いに干渉してくる。そこで、届けられるべきギフトがきっとある。
これも、わたしが受け取ったギフトのひとつなんだろうな。
残り数時間の大幸運日、あなたには蒔きたい種がありますか?
明日届くギフトはどうか、受け取ってあげてくださいね。

西陣の拝み屋えみこside

西陣の拝み屋美惠子side

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。