見出し画像

歪んだ認知と自己評価が創る不都合な世界

突然ですが、貴方はご自分のことを適正に評価できている自信がありますか?
わたしは、人の不安を解消することをお仕事にしています。
コロナ禍以降、この「自己評価」について、違った認知の歪みを持った方が増えているように感じます。
原因は幾つもあるのでしょうが、個人的にはコロナ禍でいままでと違った環境管理ができるようになったことが悪い方向に作用しているからだと思っています。

コロナ禍で、人と会い難い社会構造がある意味普通になりました。
それは一見、不快なものと距離を取りやすくなり、快適になったように見えます。
しかしその一方で偏った情報しか入ってこなくなるリスクが生まれ、認知バイアスの偏りに気づきにくくなった、ともいえるのです。
脳はさまざまな刺激を受けて進化していきますが、この刺激の中には本来心地よくないものが過分に含まれているべきであり、皮肉なことにそういう刺激の方がより脳を成長させたりする特性を持っています。
いったん快適さから隔離された脳は、その快適さを再現するためにありとあらゆる方法を試そうとします。
そして結果的にそれがその人個人の(ひいては脳の)ポテンシャルを伸ばしていることに繋がるのです。

適正な自己評価とは

適正に自己評価できず起こるトラブルというのは、実はこれまでにも幾つか日常に存在していました。
中でも知られている代表的なものが「過小評価」「過大評価」だと思います。
しかし、ここで問題にしている自己評価についての歪みはそうではなく、
「経験(誰の実力だったのか)」というものについてのものです。
これは正確には「自己評価」とは呼ばないのかもしれません。
人は通常、いまの自分の状況を客観的に分析し、理解し、判断しながら社会の中で居場所を得ています。
しかし、この認知に偏りがあると当然分不相応な持ち物や居場所を手にすることになり、結果的に問題が発生することになるのです。
これらはすべて認識の歪みから起こる問題で、それを「自己評価」と呼ぶのが正しいのかどうか、という部分もあります。
しかし、彼らの判断の中ではそれは「自分の手柄」であり、その認識に基づいて立場や地位、評価を求め行動します。
そう、この時点で「評価」というキーワードが出てきてしまうので、結局「自己評価」という括りで見ていくしかないのか、と思うわけです。

誰かに貰った経験は、実は実力とは言い難い

人生の中で「○○さんと一緒にやったらできるのに、一人でやったらうまくいかなかった」という経験はありませんか?
特にスキル系のお稽古事で耳にする話です。
先生とやったら、お教室ならするするできたのに、一人で家でやってみたらなんか思っていたのと違った仕上がりになった。
教室だとうまくいくことが、家だとうまくできない。
このからくりは、実は「脳が下駄を履いている状態」だから。
経験者というのは「その人には見えない部分を観る目」を持っています。
そして「こうすればいいんじゃない?」というアドバイスは、確実に成功する方向からしか語られません。
そして実力というのは、自分が同じような目を持った段階で初めてそう呼べるもので、そこまでの間は下駄を履いている状態(実力の一部は人の力を借りているに過ぎない)であるという場合があるのです。
コロナ禍以前は、この部分が周囲にいろいろな人がいたことで知覚しやすい部分がありました。
自分の手に負えないことが、望む望まないに関わらず日常的に起こってきたからです。
しかし、コロナ禍となり、閉塞的社会を生きるようになると事情が変わってきます。
本人が思い込みを維持しやすい環境が継続し、その結果歪んだ認知のまま「実力ある人」として振る舞い続け、その立場や居場所や地位を求めてしまう可能性が高くなっているのです。

勘違いし続けるリスクを回避するために

ここから先は

790字

¥ 200

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。