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ネコと関心

野球にあまり、関心がない。
関西出身なのでまわりには阪神ファンが数多くいたが、子どもの頃から野球の話になるとどこかぽつねんとしていた気がする。

野球には関心がないが、野球中継の音は好きだ。
関心がないからなのだろうが、賑やかな音はBGMとしてすごく心地よい。

思えば、こうした「関心がないからこそ寄りそえる関係」というものは、意外に多い気がする。
学生時代、熱を入れすぎた恋愛はいつも悲劇に終わった。
逆に、平熱からすこしずつ温めていった恋は、適度に長続きした気がする。

仕事もそうだ。
「これは負けられない」と手に力を込めてつくった企画や文章は、いつも肩すかしを食らう。
手を抜くわけではもちろんないが、それなりに力を抜いて、楽しみながら考えることができた仕事は、ある種の客観的な視点が混じるのかクライアントの納得感も得やすいように思う。

10数年前、大学時代に住んでいた7畳ほどのワンルームマンション。その駐輪場に、野良猫がいた。
たしか白と黒のブチネコで、子どもから大人になりかけているくらいの大きさだった。青年だったのだろうか。オスかメスかも分からなかったが。

その野良猫へ、まれにエサを与えていた。いま思えば未熟な自己満足でしかないのだが、なんとなくふと見かけたネコが痩せて見え、コンビニで買ったキャットフードを差し出したのだ。

ネコはむしゃむしゃ食べる。その様子はまさに一心不乱という感じで、じっと見ていると「おいしそうだな」と共感してしまうほどだった。

何回かあげていると、やがて出会い頭にネコが寄ってくるようになった。にゃあん。かわいい。お金のない大学時代、毎回エサをあげることはできなかったが、愛着のようなものが生まれ「ネコ可」のマンションに引っ越そうかとすら思った。愛着は責任感に変わり、やがて愛情になる。よし、拾って飼おう。引っ越そう。

すると、ネコがいなくなった。にゃあとも聞こえなくなった。飲み会の帰り、明け方の街。姿をさがしてみても、その影は見えない。こんなとこにいるはずもないのに。

関心がないからこそ、寄りそえる関係ってある。ネコはやはりクールだ。それ以来、野良猫にエサを与えることはなくなった。