【舞台】『スリル・ミー』の背景――ユダヤ人のゲイであるということ

 舞台『スリル・ミー』は、1924年、アメリカで起きた殺人事件を題材としている。作詞・作曲・脚本を手がけたステファン・ドルギノフは過去公演のパンフレットにおいて、以下のように述べている。

 若い2人の前途有望な青年が、なぜあのような恐ろしい事件を起こしたのかを想像するのは難しいかもしれません。でも、『スリル・ミー』では、2人の関係性がいかに変化し、絡み合いながら、完璧な共犯者になっていったのかということに光を当てています。人間の奥に渦巻く感情を表現するには、音楽こそが最適な手段であると思います。内に秘められた心情を歌で表現することで、観客らその人物の奥深い内面を知ることができるのです。本作を執筆中、私の頭の中では、2人のキャラクターが「歌って」いました。その時私は、魅力的なこの物語に、最善の方法で命を吹き込んでいるのだと確信しました。

『スリル・ミー』公演パンフレット、2014

 この事件の犯人である青年レオポルドとローブの二人がなぜ殺人という極限に至ってしまったのか、そのことを彼らの親密性から捉え直すこと。これがドルギノフの意図であった。
 ドルギノフは、「私」(=レオポルド)が「彼」(=ローブ)に執着した結果、99年の終身刑という歪な鳥籠に「彼」を閉じ込めようとした、という解釈を提示している。これはあくまでも事件の真相ではなく、ドルギノフによる1つの解釈でしかない。

 だが、私はドルギノフが提示したこのあまりにも極端な親密性に対し、素朴な疑問が浮かんだ。
 なぜ、19歳と18歳の青年たちがこれほどまでに自らの感情に追い詰められていくのか、と。

 無論、実際の事件についてはレオポルドとローブが裕福な家庭に育ち、自らの知能に圧倒的な自信を持ち、完全犯罪を成し遂げられると信じていたある種の愉快犯であったことが明らかにされている。だが、ドルギノフは「私」も「彼」も自らの感情に追い詰められて、相手との関係を手放すことができず、殺人という極限にまで至ってしまう、というプロセスで以てこの事件を捉え直している。
 だとしたら、相手との関係を手放すことが出来なかった原因とは何なのか。作中ではほとんど言及されないが、彼らのエスニシティがユダヤであり、かつゲイであったこと、実はそれが彼らの極端な親密性を理解する一助になるのではないか。すなわち、彼らは裕福で優秀な学生であったとしても、そのアイデンティティ――ユダヤ人のゲイであることは社会との摩擦を余儀なくされるものであり、それが彼らにあの歪な親密性を手放せさなかったのではないか、と。

同性愛――犯罪と病気

 『スリル・ミー』は同性愛の物語である。「私」と「彼」の関係を見る限り恋人関係とは言い難いが、彼らは唇を重ね、性的な行為にも及ぶ。彼らが自らのホモセクシュアリティを否定的に感じているような描写は一切ない。

 だが、1920年代のアメリカでは同性愛は犯罪であった。
 ジェンダーとセクシュアリティの研究者であるジョージ・チェーンシーはアメリカにおける同性愛差別について以下のように指摘している。

(2006年から見て:引用者注)50年前には、ゲイの権利を保障する法律を持つ州は存在しなかった。反対に、すべての州にソドミー法や同性愛行為を処罰する法律が敷かれていた。19世紀後半になって、各自治体の警察はゲイ男性に対して風紀紊乱罪・放浪罪・猥褻罪・徘徊罪などの軽犯罪を適用するようになる(*1)。1923年にはニューヨーク州議会は州法を手直しし、初めて「自然に反する罪やその他の猥褻行為に関わる目的で他の男性を誘惑するために男性が公共の場に頻繁に出入りし、徘徊する」行為はすべて風紀紊乱行為として処罰できると明言した(*2)。軽犯罪は重犯罪に比べて訴訟手続きにおける被告側の弁護の余地が少ないため、これらの軽犯罪違反の罪に問われて逮捕・起訴された男性の方が、重罪であるソドミー法の嫌疑で起訴された人々よりもずっと多かった。この1923年から、1966年にジョン・リンゼイ市長がゲイ男性を逮捕するための覆面捜査官によるおとり捜査をやめさせるまでの43年間に、ニューヨーク市だけでも5万人以上の男性がこの容疑で逮捕された(*3)。
(…)
 換言しよう。50年前には、同性愛者は単に軽蔑され嘲笑されていただけではない。かれらの市民権は制度的に剥奪されたいたのだ。つまり、結社の自由、公的な施設を利用する自由、表現の自由、報道の自由、そして自分自身が欲する親密さの形を選択する自由を剥奪されていたのである。そのうえかれらは、現代の私たちの想像を絶するほどの激しい取締りや嫌がらせにも直面していた。

(※注1~3について。チェーンシーの引用元の確認を忘れたのでここは後日加筆)

ジョージ・チェーンシー『同性婚――ゲイの権利をめぐるアメリカ現代史――』、明石書店、2006・6

 19世紀後半以降、ゲイ男性はゲイであるというだけで犯罪者扱いされ、種々の処罰の対象となっていたのである。また、チェーンシーは、20世紀半ば時点でアメリカの半分以上の州では、同性愛行為を含む特定の性行為に関わったと見做された人間は、警察による強制的精神鑑定や、同性愛が「治癒」するまで精神病院での無期限入院の対象とされた。チェーンシーの記述からではこうした同性愛の「治癒」がアメリカにおいていつ頃から始まったかは窺い知ることはできないが、同性愛は犯罪であり、処罰の対象であり、また直すべき「病気」ですらあった。
 ハリウッドでは「ヘイズ・コード」と呼ばれる自主規制ルールが1930~1968年まで敷かれ、同性愛描写は禁じられた。同じ事件を題材としたヒッチコック監督『ロープ』(1948)が、事実として確認されているレオポルドとローブの同性愛関係を黙殺しているのは恐らくこのためであろう。

 劇中ではこのような同性愛差別は注意深く存在を消されている。 
 だが、ゲイであるということが社会的にどのような意味を持ちうるのか、そのことを「私」が意識しているような様子は描かれる。
 表題曲「スリル・ミー」の後「私」と「彼」が性的な行為に及び、事後と思しきタイミングで、時間は1958年に戻り、倫理審査委員会と「私」のやりとりが展開される。その際、委員会は「犯罪に手を染めてまで、彼といたかったのか」と問い、「私」は少し逡巡した後「……それが彼との友情でしたから」と答える。
 確かに「私」と「彼」の関係は恋人とは言い難い。だが、その間に横たわっていた感情が「友情」というものに収まるようなものではないことは明らかだ。
 また、作品末尾において、委員会に「現在、彼のことをどう思っていますか?」(「あなたにとって彼とはどんな存在だったのですか」的な台詞だったか)と問われた際、やはり「私」は長く逡巡した――言葉にしようとして、どうにも言葉にできようもない苦悶と挫折を経たのちに「この話はもうしたくありません」と、自らの内面を語ること自体を拒絶している。
 この場面については、➀釈放申請を審査する場であること、➁一般的に言って他者への激しい愛着の感情は容易に打ち明けられるようなものではないことが逡巡の理由として挙げられるかもしれない。
 だが、「私」が「彼」との関係を「友情」だと述べ、自身の内面を秘匿したことは、作中時間が1958年であることを考えれば、それは同性愛に対する差別――逮捕と処罰から逃れるために他ならない。
 チェーンシーは19世紀後半に始まった同性愛の犯罪化が20世紀半ばで続いていたと述べているが、実際1950年代にはまた新たな形で同性愛に対する凄まじい差別の嵐が吹き荒れていた。当時のアメリカは、共産主義(ソ連)を敵視しており、共産主義者を国を脅かす存在と見做し、社会から排除しようとしていた。そこで同性愛者は共産主義者と結びつけられ、激しい憎悪の対象となっていた。
 監獄に34年いた「私」が、1958年当時の同性愛差別をどれだけ知ることができたかは分からない。無論、監獄内の空気で感じとるものはあったかもしれないが、1920年代から1950年代にかけてのゲイ男性は一貫して差別的に遇されてきたのであり、倫理審査委員会との問答において「私」はクローゼットに閉じこもる、すなわち自らのホモセクシュアリティを秘匿することだけが、彼が生き延びる道だったと言えよう。あの問答において「それが彼との恋愛でしたから」などと答えたならば、「私」は今度は「忌むべき同性愛者」として裁かれ、精神病院へと送られたのだろうから。

 1920年代、ゲイというセクシュアリティを抱えて生きるにはあまりにも困難な時代であったと言わざるを得ない。親にも友人にも打ち明けられない、同じゲイ男性と知り合う場所もほぼない(あったとしても、そこへは逮捕されるリスクを抱えて訪れなければならない)、ゲイだと疑われたらそれだけで逮捕をされ、処罰され、挙句ほとんど監獄のような精神病院へと送られる――ゲイであることは死んでも隠されねばならなかったのだ、絶対に。
 事実、実際の事件について研究を重ねたhttp://leopoldandloeb.com/では、「絞首台に面した時、レオポルドはホモセクシュアルであることを暴露されるぐらいなら絞首刑に服すとグリュック博士に語った」(原文:Facing the gallows, Leopold told Dr Glueck that he would rather hang than have the Dr. reveal that he was a homosexual.)と述べられている。
 ゲイであることを隠して生きねばならない――それはセクシュアリティという変えようのない己のコアを否定されることであり、そのことによって嘲笑され法的に裁かれる可能性に怯えて生きることであり、当然のごとく恋人に恵まれる機会に関して異性愛者とは比べものにならないほどの困難を抱えさせられることである。
 自分には「彼」しかいない。恋愛感情は往々にしてそのような激しい切実さを持つが、異性愛者には「次を探す未来」が容易に用意されている一方で、1920年代のアメリカにおけるゲイはそれをほとんど剥奪されていた(行えたとしても相当な困難と危険が付きまとう)。「私」の「彼」に対する激しい執着は、そうしたゲイとしての絶望の裏返しでもあったのではないか。
 「彼」が「私」を突き放しきれなかったのは、そもそも「私」が「彼」を同性愛という「犯罪」で告発しうる可能性があったから、とさえ思われてくる。作中では二人が「共犯者」であることが強調されるが、それは放火や殺人といったものだけではなく、「同性愛」という「犯罪」に対するものであったのかもしれない。

ユダヤ人――差別と反感の対象

 劇中、彼らがユダヤ人であることはほとんど示されない。作中で示される「私」と「彼」の社会的立場は以下のようなものである。
➀「私」「彼」ともに裕福である。
➁ともに飛び級し、現在は別の大学院に通っている。
➂二人とも法律の勉強をしており、「彼」は弁護士を目指している。
④「私」の父は有名人であり、警察が気遣って「私」の出迎えを行う。
➄「彼」は人気者であり、(弟から話を聞いた「私」によれば)何人もの女と遊んでいる。
 これら作中の描写を見る限り、「私」と「彼」がユダヤ人であることによって何らかの困難を抱えているようには見受けられない。

 だが、1920年代は、アメリカでユダヤ人差別の嵐が吹き荒れていた時代だった。
 裕福なユダヤ人であった「私」と「彼」が置かれていた社会的立場を考えるために注目すべきは、ユダヤ人青年実業家レオ・フランクのリンチ殺害事件、および自動車王ことヘンリー・フォードの反ユダヤ・キャンペーンであろう。なお、以下に記述するこれらの概要は佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害史』(集英社、2008・08)に拠っている。

 ユダヤ人青年実業家レオ・フランクのリンチ殺害事件のあらましは以下のようなものである。
 1913年にアトランタで起きた事件に端を発している。4月26日、レオ・フランクが経営する工場で、彼に雇われていた若い白人女性が殺害され、フランクが容疑者として逮捕される。だが、これは冤罪であり、真の犯人はジム・コンリーというフランクに雇われていた黒人男性であった。
 フランクの無実を確信していた当時の州知事スレイトンは、絞首刑から終身刑に減刑する命令を出し、フランクは監獄へ送られることになる。だが、その減刑を不満に思った者たちによってリンチ団が組織され、収監されていたフランクを連れ出し、リンチによって殺害した。
 このような冤罪、そしてリンチが起きた背景として、佐藤は以下のことを指摘する。➀当時のアトランタではユダヤ人が急速に経済力を持ち始めていたこと、➁その結果ユダヤ人に対する地域住民の反発が高まっていたこと、➂当時のアトランタ市警は失態を重ね市民からの信頼を損なっていたこと、④被害者が白人であったため、地域の支配層である白人たちにとって「同胞」が害されたとして早急に解決すべき事件と考えられていたこと、➄そして「同胞」であるが故に黒人の命では見合わず、白人の命こそが償いとして相応しいと見做されていたこと。
 また、佐藤によれば、この事件の結果、南部ユダヤ人の心には反ユダヤ主義に対する強い恐怖心が芽生え、対外的に政治的・経済的影響力を有していた北部ユダヤ人は反ユダヤ主義と対決する姿勢を固めることになった。

 ヘンリー・フォードの反ユダヤ・キャンペーンとは、1920~1927年にかけて、週刊新聞『ディアボーン・インディペンデント』紙を舞台にフォードがユダヤ人に対するヘイトスピーチを展開したものである。このキャンペーンが当時いかに強く支持されたかについて、佐藤は以下のように述べている。

 「国際ユダヤ人――世界の問題」(引用者注:ユダヤ人に対する悪質なデマを書き綴ったシリーズものの記事)の連載が始まるや、それまでまったく無名の存在でしかなかった地方紙「ディアボーン・インディペンデント」は一躍、全国的注目を集めるようになり、多くの読者が喝采を贈った。またフォードのもとには賛辞のみならず寄付金を送ってくる者さえ少なくなかった。そうした反響の大きさは発行部数の急増によってもよくわかる。
 1919年末の買収時に7万2000部に過ぎなかった発行部数は、反ユダヤ・キャンペーンの開始とともに急増し、1922年には27万部、23年中頃には47万部、そしてピーク時の25年には70万部にも達している。この70万部という数字がいかにすごい部数であったかは、当時全米で最大の発行部数を誇ったニューヨーク市内の日刊紙「デイリー・ニュース」でさえ75万部にすぎなかったといえば、よくわかるであろう。

佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害史』集英社、2008・8、103-104p

 佐藤によれば、読者層については様々な研究が試みられているものの、曖昧な推測の域を出ないという。だが、フォードによる反ユダヤ・キャンペーンはユダヤ人たちにとって到底看過できるものではなく、ユダヤ人側から様々な反撃も行われた。アーロン・サピロという人物はフォードに名指しで誹謗中傷され、ついに1925年、フォードに対して訴訟を起こす。結果、サピロは勝利し、フォードによる公的な謝罪、及び『ディアボーン・インディペンデント』紙の廃刊を引き出すことに成功する。
 とは言え、フォードは反ユダヤ主義であることを生涯変えず、またアメリカにおけるユダヤ人差別はこの後も長く続いていくことになる。
 佐藤は、フォードが反ユダヤ・キャンペーンを7年も公に展開できた背景について以下のように指摘する。

 当時、ユダヤ人をその代表とする東南欧系移民に対する排斥感情が高まり、彼等のアメリカ入国を阻止するための差別的移民法(新移民法)が1924年に制定され、また第五章で詳述するように、名門私立大学において、ユダヤ人新入生の入学枠を制限する差別的入学定員が大学当局によって導入されたのもこの頃のことであった。
 この排斥の動きは高等教育の分野にとどまらなかった。住宅や不動産の賃貸と購入、そして大企業のホワイトカラー職への就職など、ユダヤ人排斥のネットワークは20年代、アメリカ社会の隅々にまで張り巡らされていたのである。
 このような時代状況のなかで、フォードが反ユダヤ・キャンペーンを始めたことに注目すべきであろう。この時代、知識人も含めて、実に多くのアメリカ人が反ユダヤ・パラノイアにとりつかれていたのである。つまり、反ユダヤ主義は、単にフォード個人の心の病ではなく、当時のアメリカ全体に蔓延していた社会心理学的病理現象であったといえよう。

佐藤唯行『アメリカのユダヤ人迫害史』集英社、2008・8、120p

 つまり、事件が起きた1924年のアメリカにおいて、ユダヤ人たちはレオ・フランクのリンチ殺害事件の記憶を引きずりながらアメリカを代表する経済人であるフォードからのヘイトスピーチに晒される、という状況に置かれていた。
 但し、一口にユダヤ人と言っても、彼/彼女らが受けた差別は均質のものではない。例えば、フォードはユダヤ人を「善きユダヤ人」(=地域社会のなかで勤労に励み、慎ましく暮らすユダヤ人)/「悪いユダヤ人」(=国際社会のなかで金融を営むユダヤ人)とに分け、前者の存在は肯定し、ユダヤ人の友人がいたり、自らの工場にもユダヤ人を雇っていたりした。また、いつ・どこから移民してきたのかというルーツや居住地域、貧しいのか裕福なのかといった階級などによってもその諸相が異なることが佐藤の指摘からは窺える。
 とはいえ、ユダヤ人たちにとって、その属性が社会から十分に肯定され、尊重されるものではない、ということは共通していたはずだ。佐藤によれば、20世紀前半、アメリカの大学に在学していたユダヤ人学生は二つのグループに分かれていたという。一つは19世紀後半に移民し既にアメリカ社会に同化していた裕福なドイツ系ユダヤ人の子弟、もう一つは世紀の変わり目に移民してきた東欧系ユダヤ人の第2世であり、後者の方が当時のユダヤ人学生の大多数を占めていた。名門私立大学におけるユダヤ人新入生の入学枠を制限する差別的入学定員は、後者の台頭に怯えた白人たちが彼らの排除を目指したがために生まれた制度であった。だが、佐藤は裕福なドイツ系ユダヤ人の子弟がプロテスタント系白人中産階級と同等の社会的ポジションを有しつつも、学園生活の中では白人社会に完全に受け入れられたわけではなく、微妙な立ち位置に置かれていたことを示唆している。
 きっかけさえあれば、差別、憎悪、暴力の対象となりうる――居住地域や階級によって程度の差はあったにせよ、そうした可能性とユダヤというエスニシティは隣り合わせであったと言ってよいだろう。そして、それはまた裕福で優秀な学生であった「私」と「彼」でさえも無縁のものではなかったはずだ。

 「彼」がニーチェの超人思想に執着しなければならなかった理由も、ユダヤ人のゲイである、という二重のマイノリティ性にあるのかもしれない。アメリカにおけるニーチェの受容史を研究したジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲンは、このレオポルドとローブの事件の被告側の弁護士となったクラレンス・ダローの弁舌内容について、以下のように述べている。

(…)だが、その訴えの長さにもかかわらず、また多大な部分をニーチェに費やしたにもかかわらず、ダローはごく大まかな言及をするだけで、ニーチェの哲学を説明したわけではない。まして、議論のまさしく中心にある概念、ニーチェの超人思想に言及したわけでもない。超人とは、因襲的な道徳的約束事を超越した、より高貴な存在であると、それはたんなる「一つの理論、一つの夢、一つのヴィジョン」にすぎないとそっけなく語っただけである。
 だが、この若者たちはニーチェの哲学の犠牲者であると、ニーチェが彼らの人生を「破壊した」のであると示そうとする努力のなかで、ダローが示唆したのは、自分たちがニーチェの考えていた超人であると二人が思い込んだのは、無知による誤解であるという点であった。「ネイサン・レオポルドはニーチェを読んでいた唯一の若者というわけではない。ただし、このような仕方でニーチェに影響されたという点では、彼は唯一の人間であるかもしれないが」(*1)。この若者たちは犠牲者である、とダローは主張した。それは彼らがニーチェを読んだときに、これは自分たちのことを書いているのだ、と考えずにはいられなかったからである、と。ダローのふるまいから理解できるのは、二十世紀初頭のアメリカ人にとって、超人が捉えどころのないヴィジョンであったということ、しかしアメリカ人は近代のアメリカと折り合いをつけるために、自分自身の問題点と可能性を明確に捉えるために、そのヴィジョンを利用してきたということである。

(*1)Clarence Darrow,Clarence Darrow's Plea for the Defense of Loeb and Leopold(August 22,23,25) (Girad,KS:Haldeman-Julius,1925)

ジェニファー・ラトナー=ローゼンハーゲン著、岸正樹訳『アメリカのニーチェ』法政大学出版局、2019・10。原著の刊行は2012年。

 ローゼンハーゲンの指摘で重要なのは、「超人が捉えどころのないヴィジョン」であったということである。「超人」とはニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』において語られる概念であるが、「超人」は世俗的なものを超越した、凡俗な大衆とは対照的な存在として語られる。だが、『ツァラトゥストラはかく語りき』の語り口は曖昧で、「私」が「火をつけろなんてどこに書いてある?」と揶揄していたが、「超人」とはどのような価値観を持ち、どのように振る舞う存在であるのか、その具体的なヴィジョンは見えてこない。つまり、それは読み手の恣意的な解釈を許し、各々に自分の求める「超人」像を読み込む余白が、この著作にはあったのである。事実「彼」は「超人」を社会の倫理規範に挑戦する存在として捉えているが、その解釈はまさに「彼」が社会の倫理規範から蔑まれ、排除される存在であり、自らを肯定するために世俗の一切を超えようとした――そんな可能性すら見えてくる。

 実際の事件では、ユダヤ人のゲイであるというマイノリティ性がその起因となったわけではない。
 だが、ドルギノフが描き出した自らの感情に追い込まれてゆくような二人、演出家の栗山民也をして「「二人だけのぶつかり合うリング」、或いは「『私』の脳の中の小部屋」」(『スリル・ミー』公演パンフレット、2018)と言わせしめた闘争的で、異様なまでの濃密な感情のドラマを目にするとき、どうしてこれほどまでに19歳と18歳の青年が、一方は相手を狂おしく求め、一方はそれを疎ましく思いながらも相手を突き放しきれなかった――それどころか契約を持ち掛け手元に置こうとさえした――のか、そんな疑問があらゆる感情の渦と共に呼び起こされる。その疑問を解いてくれる一つの答えが、1920年代のアメリカにおいてユダヤ人のゲイという二重のマイノリティであったことではないか。それは裕福であろうとも、二重の(あるいはそれ以上かもしれない)困難に囲いこまれる存在のしかたであった。
 二人の精神的苦闘に民族的にもセクシュアリティにおいてもマイノリティであったことへの不自由さを見いだすとき、「リアルな世界のいくつもの人間の、いくつもの深い傷口と出会うことになる」(栗山、同前)この舞台はまた一つの、あるいはそれ以上の可能性に開かれることになるかもしれない。

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