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 こんにちは。エネルギー・文化研究所の小西久美子です。
2023年3月18日、JR大阪駅(うめきたエリア)に新しい地下改札ができました。最新の設備と技術を備えた近未来的な駅と言うことでも話題です。また、大阪・梅田で開発が進むうめきた2期の街区名称も「グラングリーン大阪(GRAND GREEN OSAKA)」に決定し、2024年夏には先行まちびらきの予定です。かつて、縁辺だった梅田がいかにして西日本屈指のターミナルとなり、これからどのように変わっていくのか探ってみたいと思います。 

1.大阪駅の成り立ち

 今から149年前の1874年(明治7年)5月に、官営鉄道大阪~神戸間が開業し、初代大阪駅である「大阪停車場」が誕生しました。当初は堂島に駅を作る予定でしたが、蒸気機関車は火事の元になると地元住民や商家の反対を受け、市街地としては北のはずれにあたる曽根崎村(現在の梅田)が選ばれました。沼を埋めた埋め立て地だから埋田(うめた)、そこから梅田となったのが地名の由来と言われています。現在の旧大阪中央郵便局のあたりになりますが、当時は一面田畑で水路が至るところに点在する風景が広がっていました。駅舎は木造煉瓦張、2階建て日本瓦葺、総レンガ造りの洋風建築で、「梅田のすてん所(ステンショ)」として人々に親しまれました。
 その後、東海道線が全線開通し利用客が増大したため、1901年(明治34年)7月に、ほぼ現在と同じ位置に2代目大阪駅が開業しました。石張り、煉瓦造りで東西に長く、正面中央広間部分だけが2階建ての吹き抜けで、玄関正面には車寄せも設けられていました。その建築の素晴らしさから、日本銀行大阪支店、造幣寮(造幣局の前身)の応接所として建設された泉布観とともに大阪の三名所と称されました。

 そして、1906年(明治39年)に阪神電車本線の出入橋駅~梅田駅が開通、1910年(明治43年)に阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道の宝塚駅~梅田駅が開通し、大阪駅のターミナル化の基盤ができあがっていきました。また、1912年(明治45年)に市電開発による街路の拡幅によって、現在の大阪駅前地区の輪郭ができあがりました。
 一方、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、軍事輸送等による貨物輸送が急激に増加し、大阪駅と駅周辺施設は再び機能拡張の必要性が生まれました。そのため大阪駅の改良計画が立てられ、旅客と貨物の分離が行われることになりました。これにより旅客の大阪駅は高架され、貨物についてはその北側に移転し、1928年(昭和3年)12月に梅田貨物駅が開業しました。堂島川につながる水路まで掘られていて、大阪の貨物の玄関口としての役割を果たしていました。この貨物駅があったのが現在の「うめきた」にあたります。
 貨物駅が整備される前、この辺りは、市立大阪工業高校(現:大阪府立都島工業高校)、北野中学(現:大阪府立北野高校)、大阪府女学校(現:大阪府立大手前高等学校)、梅花女学校(現:梅花女子大)、金蘭女学校(現:金蘭会中学・高等学校)などが点在する文教地区でもありました。1920年(大正9年)ごろから移転が始まり1932年(昭和7年)には全てが移転してしまいましたが、現在も道路名称は「大阪市道工業学校表通線」となっており、当時の名残が見られます。

2.大阪駅前市街地改造事業

 大阪の玄関口に相応しい駅前空間を実現しようとする構想は、1919年(大正8年)の大阪市区改正設計から始まっています。当時の都市計画は道路整備が中心でしたが、1928年(昭和3年)に事業決定された大阪駅付近都市計画事業では都市景観としての「都市美」が意識されています。整形地に建つ高層建築による景観形成が構想されていましたが、残念ながら、第二次世界大戦の影響で事業は中断されてしまいました。
 戦後、事業計画地にはヤミ市が形成され、バラックなどの木造建築が密集し、構想された都市美とは全く異なる光景が出現しました。大阪駅前市街地改造事業として改めて事業が動きだすのは、戦後15年以上経過した1961年(昭和36年)になります。1970年(昭和45年)に大阪駅前第1ビルが完成し、最後の第4ビルが完成したのが1983年(昭和58年)ですので、実に20年を超える長い期間を経て駅前整備がされたことになります。現在は、北側の建物も含めたエリアが五角形のダイヤモンドに似ていることから「ダイヤモンド地区」として親しまれています。

3.梅田の広がりと人の流れ

①ターミナル・デパート
 1929年(昭和4年)、日本初のタ-ミナル・デパ-ト「阪急百貨店」が開業し、物流拠点だった大阪駅が、複合商業エリアへと大きく発展をするきっかけになりました。当時は老舗呉服商(三越、高島屋、大丸など)から転じた百貨店が主流で、お店は市の中心部に立地し鉄道の駅からは離れていたため、お店と駅を結ぶお客様送迎自動車を出していました。そこで電鉄直営の阪急百貨店は、「どこよりも良い品をどこよりも安く」をキャッチコピーに、食堂中心の大衆向けの百貨店を目指しました。その後、阪神百貨店の前身である阪神マートも開業し、梅田エリアは多くの人で賑わい急速に発展していきました。
 
②地下街の形成
 1950年代に入ると、国鉄(現在のJR)大阪駅、阪急、阪神、市営地下鉄の梅田駅、大阪市電の停留所、市バスのターミナル、そして阪急、阪神2つの百貨店が集まる梅田界隈は大混雑でした。道路交通対策、人と自動車の立体分離のため地下街の計画が始まり、1963年(昭和38年)に「ウメダ地下センター」(ウメチカ。現在のホワイティうめだ)、1966年(昭和41年)に「ドージマ地下センター」(ドーチカ)が開業しました。地下街だけでなく、先述の大阪市街地整備事業で建設された大阪駅前第ビルの地下にも本格的な地下商店街が登場しました。1969年(昭和44年)には、人工の川の流れる地下街「阪急三番街」が誕生しました。
 一方、地上部では高層ビルの建設が相次ぎ、1964年(昭和39年)には、大阪駅と阪急・阪神前をつなぐ「梅田新歩道橋」が松下幸之助より寄贈され、梅田の街は、地下、地上、空中の3つの道を手に入れることになりました。しかし、何と言っても地下街の充実ぶりは圧巻です。

③阪急村と北側への広がり
 1973年(昭和48年)に阪急梅田駅が現在の位置に拡張移築されたことで、旧駅周辺は大きく変わりました。元々は古くから地域に根ざした身近な芝田市場・芝田商店街として親しまれてきたエリアでしたが、駅の移設に伴い住宅や商店の多くが移転し、その跡には阪急古書のまち、阪急かっぱ横丁、阪急グランドビル(32番街)、北野阪急ビル(DDハウス)、新阪急ホテルアネックスなどが次々に誕生し、「阪急村」として新しい賑わいが生まれていきました。芝田市場はなくなって50年以上経ちますが、今でも当時の商店が数件残っています。
 梅田の北東に位置する茶屋町は、阪急村の賑わいとは異なり下町情緒の残るエリアでしたが、1969年(昭和44年)に新御堂筋が町の東に開通したことに伴い、それまでの住宅街や産業地域から変貌し、人口減少が加速していきました。1990年代に入って、毎日放送社屋や梅田ロフト、茶屋町アプローズができると一気に繁華街化が進みます。2000年代からは複数の市街地再開発事業によって、業務、商業、文化、居住等が更なる充実が図られていますが、今でも居住者が残る民家や、使われなくなった民家を再生して店舗にしている所もあり、新旧の混在がまちの魅力のひとつにもなっています。

④西側への広がり
 西梅田では、旧国鉄貨物ヤードの跡地に「オーサカ・ガーデン・シティ」が生まれました。区画整理事業で22メートルの道路が整備され、道路沿いにはハービスOSAKAなど文化・国際・情報の都市機能を備えた商業ビルが1992年(平成4年)~2000年(平成12年)の間に10棟竣工し、地下には歩行者道路「ガーデンアベニュー」が整備されました。2004年(平成16年)にはハービスENTやヒルトンプラザウエストも竣工し、ゆとりや潤いの少なかった大阪駅から西のエリアにこうした施設ができることで「梅田」が西に広がっていきました。

⑤南北を貫く
 1979年(昭和54年)に4代目大阪駅が開業し、4年後には百貨店を含む商業施設、ホテルも完成し総合ターミナルビルとしての役割を担っていきました。1991年(平成3年)に中央高架下に開業したショッピングモール「ギャレ大阪」(現在は閉館)も併せ、いずれも大阪駅と駅構内の利便性と商業的魅力を高めるためのものでした。大阪駅自体が駅の北と南の分断要素となっていました。しかし、「うめきた」に先行して2011年(平成23年)に開業した5代目大阪駅では、駅を南北に貫く「南北連絡橋」により通り抜けが可能になり、駅の南口と北口の一体感が格段に向上しました。

 4.これからの梅田 ~ ウォーカブルなまちへ

 人と自動車の動線分離のため、当初は交通安全対策として整備された地下街でしたが、次第に大阪駅周辺の都市空間を有機的につなぐ歩行者のための一大交通網となりました。その結果、「梅田ダンジョン(地下牢)」とも呼ばれる迷路のような複雑な地下街が形成されました。
 一方、地上部では高層ビルが建設され、梅田周辺は地上と地下の両方で高度に都市の立体化が進められてきました。道路上空利用や公開空地など地上部を活用する工夫も増えてきていますが、まだまだウォーカブルとは言い切れません。うめきた2期の開業を来年に控え、歩いて楽しいまちへと梅田はどう変わっていくのか楽しみです。
 
■2023 都市環境デザインフォーラム関西「UMEDA未来図」が5月20日(土)に開催されます。
現在進行中の取り組みに触れつつ、産官民の対話を通じて梅田の未来(UMED未来図)を探ります。

 
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