さがしもの

 人気のまばらなホームのベンチに、ぽつんとひとり座っている少女がいた。
 年齢は十歳くらいだろうか、帆布でできたデイバッグを背負い、腕にはB4サイズの厚手のスケッチブックをだいじそうに抱えていた。首からペンダントのようにボールペンをぶら下げて。
 喫煙所を探しながらホームをうろついていた孝輔は、何だか不思議な空気を身にまとうその少女に、一瞬だけ気を取られた。が、すぐにホームの端にある喫煙所に目をやって、真直ぐに歩き続けた。
 最近は煙草一本喫うにも、周りに気を遣い、場所を探し、うろうろと歩き回らなければならないことが孝輔には苦痛だった。世界的にも喫煙者はどんどん隅に追いやられ、孝輔のような愛煙家は肩身が狭い。マナーのよい愛煙家を自負しているにもかかわらず、だ。
 孝輔は灰皿のないところでは決して喫わないことにしているし、たとえファミリーレストランの喫煙席に座ったとしても、同じテーブルで誰かが食事をしている限りは煙草を咥えることすらしない。歩き煙草、吸殻のぽい捨てなどはもってのほかで、見ず知らずの人間にすら迷惑をかけないように常に心がけている。
 ホームの端に辿り着いて、ポケットの中からマイルドセブンとマッチを取り出した。ぱっと明るい炎が散って、紫の煙が立ち昇る。ふう、っと大きく息をつくと、孝輔は幸せそうにそのひとときを味わった。今の孝輔にとっては、至福のひとときだ。
 ゆっくりと一本目を味わった後で、腕時計に視線を移した。孝輔が乗ろうと思っている電車の時間まで、まだ七分あった。孝輔はほんの少し躊躇い、やはりもう一本喫おうと思って再びポケットに手を伸ばした。車内はもちろん禁煙。今のうちにゆっくりと煙草を味わっておこうと考えてのことだった。
 マッチを擦ろうとして、あの少女が傍にやってきていたことに初めて気がついた。いつから傍にいたんだろうか。そんなことを考えつつ、ちらちらと少女の様子を窺いながらも煙草に火を点けようとしたときだった。
 少女が遠慮がちに、孝輔の袖を引っ張った。
 ちょっぴりはにかんでから、持っていたスケッチブックを孝輔に向かって開いて見せた。随分と拙い字だった。孝輔がそこに書かれた文章の意味を理解するまで、かなり時間がかかってしまった。拙い字のためばかりでもない。内容が、うまく飲み込めなかったのだ。

   わたしのこえをしりませんか

 孝輔は煙草に火を点けるのも忘れて、ただスケッチブックに吸い寄せられたように見入っていた。マッチが燃えて指先に熱を感じて我に返った。
「どういう意味だい? おじさんをからかっているのかな?」
 孝輔は冷静さを取り戻して、少女に優しく問いかけた。少女はちょっと困ったように小首を傾げると、首から下げたボールペンを手にスケッチブックに向かった。

   そんなことない
   こえをなくしちゃったの
   どこにあるかしりませんか

 少女は助けを求めるように孝輔を見上げた。いずれにしても少女が口を利けないらしいことは確かだった。孝輔の言葉に対して「そんなことない」と答えられるということは、耳は聞こえているのだろうと考えたが、それでも一応、孝輔は少女に確かめた。
「耳は聞こえるんだね?」
 少女はこっくりと頷く。孝輔はちらりと時間を確かめた。あと二分もしたら電車がやってくる。こんな子供の相手をしている場合ではない、そう思って少女に電車が来るから、と言おうとしたときだった。
「……お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけしております。……駅構内での人身事故によりまして、…時…分発下り……行きは、現在一時間ほど遅れております。……」
 孝輔が乗ろうと思っていた電車だった。迂闊にも、今までのアナウンスを聞き逃していたらしい。なおもホームには機械的なアナウンスが続き、今後も大幅にダイヤが乱れるということを詫びる内容だったが、そこには何の気持ちもこもっていなかった。強いていうなら、面倒なことが起こってしまった、とでも言うような、なげやりさが微かに感じられた。孝輔は溜息をついて、ふと少女を見た。言い訳は使えなくなった。少女にも電車が遅れていることが分かっているのであろう、じっと孝輔を見上げたまま動かない。
「……あっちに座って話そうか」
 仕方なしに孝輔は少女がもといたベンチに向かった。少女が小走りでついてきた。
「声をなくした、ってどういうことだい?」
 孝輔が尋ねると、少女はすぐにスケッチブックを開いた。

   気がついたらこえがでなくなってたの
   きっとどこかになくしちゃったんだ って
   おにいちゃんがいったから
   さがそうとおもった
   だれかおとなのひとなら しってるかな っておもった

「そうか……おじさんは君の声がどこにあるか、ちょっと解らないな。ごめんな」
 少女は悲しそうに首をかしげ、そして慌てて首を振った。孝輔が不思議そうに見つめ返したからだろう、こう返してきた。

   おじさんがしらなくても だれかしってるひとがいるとおもう
   はなしをきいてくれてありがとう

 ただ少し話し相手になっただけなのに「ありがとう」と言われて、孝輔は急に申し訳ない気持ちになった。礼を言われるようなことは何一つしていない。そう思ったので、少女に言ってみた。すると少女は、今度はゆるゆると首を振って、にっこり笑った。右の頬にできたえくぼが愛らしい。

   だれも しってるのか しらないのかも こたえてくれなかった
   おじさんはしらない っていってくれた
   ちゃんとはなしをきいてもらえて うれしかった

「そうか――」
 孝輔はそれきり言葉が出なかった。何が原因で喋れなくなったのか知りようもないが、耳が聞こえるということは、何か心因性のショックによるのだろう。少女の「おにいちゃん」がどこかになくしてしまった、と言ったのも、少女を慰めるためのその場限りの無責任な嘘に感じられ、孝輔はちょっと腹を立てた。まだ幼い少女にだって、真実を知る権利がある。何かの原因があってのことなら、それをきちんと教えるのが少女のためには一番いいことなのではないか。孝輔が取りとめもなくそんなことを考えていると、少女が孝輔の袖を引いた。

   おじさん どこにいくの?

「ああ。――とても遠いところだよ。お仕事でね、一週間くらい出かけるんだ」
 すると少女は瞳をきらきらさせながら、大きく書いた。

   じゃあ だれかなおのこえのこと しってるひとが
   いるかもしれないね

 孝輔は言葉に詰まった。ここでそうだね、と簡単に答えてしまってよいのだろうか。それこそ孝輔が否定した、その場限りの無責任な嘘ではないか。しかし孝輔はその嘘を通すことを決めた。孝輔が「そんな人がいるわけなどない」と否定したところで、少女が声を失った理由を知らないのだから、真実を伝えてあげることはできない。ならば少女に嘘をつき通すのが、優しさなのではないかと思ったのだ。
「……そうだね、どこかにいるかもしれないね。君は、なおちゃんていうのかい?」
 そこに書かれた「なお」という言葉に気付いて、孝輔は尋ねた。少女はこくん、と頷いて、また何やら書き始めた。

   菜生っていうじをかくの
   なおが なのはなのさいているときに
   生まれたからなんだって

「じゃあ、春に生まれたんだね。菜の花、好きかい?」
 菜生は大きく頷き返した。自分の名前の漢字だけが書けるというのが、孝輔には微笑ましかった。孝輔も幼いころ「孝輔」という字だけ教えてもらって、チラシの裏で練習をした覚えがあった。漢字で書くと、何だか少しだけ大人になれた気がしたものだ。菜生もまた、自分の名前の漢字を練習したのだろう。しかしただでさえ拙い字が、バランスを崩してますます惨めな字になっていた。
 名前の由来をきちんと知っていることから、両親は菜生を深く愛して、菜生が生まれたときのことや名前の由来などを、事細かに話して聞かせたのだろうと、孝輔は想像した。情景が目に浮かぶようだった。
 そこでふと、孝輔はあることに気がついた。菜生の両親は菜生がこんなふうに「声を探していること」を知っているのだろうか? そんなふうに子供を愛する親なら、声をなくした理由をきちんと話して聞かせるのではないか?
「お父さんとお母さんは、菜生ちゃんが声を探しているって、知っているのかい?」
 触れてはいけないことかもしれない、その思いから、孝輔の声は今まで以上の猫撫で声になってしまった。菜生は僅かに表情を曇らせ、それでも懸命にスケッチブックに向かった。俯いた菜生の首筋が今にも折れそうに頼りないことに、孝輔は初めて気がついた。

   おとうさんにも おかあさんにも ないしょ
   なおがこえをなくしてから
   おとうさんも おかあさんも いつもかなしそうなの
   なんでなくなっちゃったのか
   どこにいけばみつかるのか こわくて きけない
   だから なおひとりでさがして
   おとうさんと おかあさんに よろこんでもらうの

 長い時間をかけて、菜生はそれだけのことを書いた。孝輔は何度かそれを読み返して、色々なことを想像してみた。でも上手く想像できなかった。何もかもが実感として孝輔に迫ってこなかった。
「……おります。…時…分発下り…行き、ただいま予定より一時間二十分遅れで運転しております。当駅には…時…分着予定です。お急ぎのお客様には……」
 ホームに流れるアナウンスで、さらに二十分も遅れていることを孝輔は知った。到着予定時刻までは、まだ三十分以上ある。
「菜生ちゃん、ここにいるかい? おじさん、ちょっと煙草を喫ってきてもいいかな?」
 別に断りを入れる理由もないのだが、何故だか孝輔は菜生に一声かけて行った方がいいと思ったのだった。菜生が大きく頷いた。孝輔は菜生にちょっと笑って見せて、それから喫煙所に立った。慌しくマッチを擦って、ただひたすらに煙を吸って、吐いて、あっという間に喫い終えてしまった。いつものようにゆっくり味わう余裕はない。菜生のことが目まぐるしく頭の中を駆けずり回り、孝輔の考えを引っ掻き回しているようだった。
 落ち着かない気分だった。
 一度、孝輔は大きく深呼吸をして、菜生をそっと見た。真剣にスケッチブックに向かっている。あまりにも真剣なその様子は、孝輔の胸を打った。孝輔は僅かではあるが落ち着きを取り戻し、菜生の座るベンチに戻った。菜生は孝輔にスケッチブックを見せた。

   おじさんは なにかをなくしたことがある?

「ああ、あるよ」

   いっぱい さがした?

「――そうだね、何度も探したよ。昔ね、おじいちゃんにもらった万年筆をなくしてね……」
 そこで菜生が首をかしげた。どうやら万年筆が分からないらしい。
「ああ。万年筆って言うのはね、鉛筆やボールペンみたいに字を書く道具だよ。……そう、それで万年筆をなくしてしまってね。おじさんは、おじいちゃんがくれたその万年筆を、とても大事にしていたんだ。なくした時はどこでなくしたのかも分からなかったけど、とにかく何度も探したよ。同じところを何度も何度も探して、それでも見つからなくてね――」
 ――そうだ。あの万年筆、結局どこに行ってしまったのだろう――。
 孝輔はふと考え込んだ。孝輔は祖父が若いころから大事にしていたと言う年代もののそれが、どうしても欲しくてたまらなくなり、我儘を言って譲ってもらったのだった。祖父が自分に特別なものをくれたことが嬉しくて――孝輔はおじいちゃん子だった――、ろくに使いもしないのに持ち歩いた。きっと持ち歩くうちに、不注意でどこかに置き去りにしてしまったのだろう。
 そこまで考えたときに、孝輔は菜生に腕をつつかれた。

   みつからなかったの?

「うん。どうしても見つからなかった――」
 そこで孝輔は、急に激しい悲しみに包まれた。
 ――あんなに大事にしていたのに、どうしてなくしてしまったんだろう――。
 ――あんなに探したのに――。
「どうして見つからなかったんだろう……?」
 孝輔はぽつりとそれだけ言って、黙り込んでしまった。

   いつか みつかるかもしれない
   また さがしてみれば?

 孝輔の目の前に、そう書かれたスケッチブックが差し出された。菜生に目を向けると、疑うことを知らない純粋な少女は、天使の笑顔を浮かべていた。

   やめたら みつからないもん
   あきらめちゃだめだよって なおもおにいちゃんにいわれたよ

 孝輔は、その言葉に何も言い返せなかった。
 今までに何度、諦めたことがあっただろうか。祖父の万年筆だってそうだ。見つからないままに諦めてしまった。いつから諦めることを覚えたのか。孝輔は、自分がとても醜い人間に思えてならなかった。
「……」
 孝輔は黙りこくって、じっと菜生を見つめ返した。
しばらく経ってから、孝輔はやっとの思いでたったこれだけの言葉を返した。
「……そうだね」
 それを聞いて、菜生が嬉しそうに頷きを返す。その姿に、孝輔は強く思った。
 菜生の声が見つかればいいと。ただそれだけを思った。
 菜生の周りの環境がどういう状況なのか分かりようもない。
 両親や「おにいちゃん」との関係がどんなものなのか知りようもない。
 声が出ない理由がどこにどのようにあるのかなんて、もう関係なかった。
 これだけ純粋に――そう、ただ純粋に声をなくしてしまったと信じて、真剣に探しているのだから、見つからなければならないと思った。見つかるはずだ、見つかるに違いない――願いに似た強い気持ちで、孝輔はそう思っていた。
 孝輔がふとホームの時計の文字盤を見ると、電車の到着予定時刻まで十分を切っていた。
「おじさん、次の電車に乗るんだ。菜生ちゃんは?」
 菜生は首を振って、こう書いた。

   えきにはたくさんひとがいるから
   だれかが なおのこえのこと しってるかもしれない
   だからここで いっぱいきいてみるの

 そしてまた、顔いっぱいに笑顔を浮かべた。それから孝輔に向かって、さらにスケッチブックを見せた。

   もしなおのこえのこと しってるひとに あったら
   ここにれんらく してください
     ××町4丁目5-32 ×××住宅 4棟 502号
                            藤岡 菜生
     電話 ×××-×××-4835

 住所と電話番号は菜生の字よりは整っていたが、まだ子供の字だった。
「これ、おにいちゃんに書いてもらったのかい?」
 菜生は頷き返した。孝輔は手帳に几帳面な文字でそれを写し取って、菜生に見せながら言った。
「ほら。ちゃんと書いたからね。もしだれか知ってる人がいたら、連絡するからね。約束するよ」
 孝輔は言いながら、この約束が果たされる日はきっと来ないだろうと思った。こんな話にまともに取り合ってくれる大人なんて、きっと他にいないだろうから。いつか菜生がそれに気付いて傷つく時が来るかもしれない。孝輔は胸を痛めた。一方で孝輔は、いつか菜生を傷つけてしまうかもしれないもうひとつの言葉を、どうしても菜生に言っておきたいと思った。嘘やごまかしではない。今の孝輔の、たった一つの願望。だからこそ孝輔はそれを口にせずにはいられなかった。
「見つかるといいね……、いや、きっと見つかるよ」
 そしてこれは少女の願望でもあっただろう。菜生はさらに嬉しそうに笑い、強く頷いて見せた。
 電車が近付いて来た。車輪を軋ませながらホームに滑り込んで来る。電車は止まり、しゅーという音を立ててドアが開いた。
 孝輔は車内に入ると、菜生を振り返った。菜生は明るく輝く双眸を孝輔に向けて、小さな手を懸命に振っていた。
 ドアが閉まる。
 孝輔も菜生に手を振った。
 電車がそっと滑り出す。菜生が電車を追って駆け出した。
「ありがとう……」
 孝輔は少しずつ離れていく菜生に向かって、誰にも聞こえないほどの小さな声で言った。がんばれでも負けるなでも、いつか声が出るようになればいいねでもなかった。自然にその言葉が、孝輔の口からこぼれ出たのだった。
 電車のドアを隔てた向こう側で、走る菜生の口が大きく動いた。孝輔の囁きに応えるように。
 実際に、菜生の声が出ていたのかどうか――孝輔には知る術はない。
 だが、孝輔の耳にはしっかりと届いていた。
 軽やかに舞った蝶が散らす鱗粉のように、煌きに溢れた愛らしい声が――。

#短編小説

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