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◾️知ると作る

理系文系、それらと哲学について前回書いた。

理系は、世界を「知る」ために分割する、その分割の決まり・法則をさぐる。文系は、分けててもまだ残っている実際に存在する個物に注目する。そのためそれぞれ、同一性、差異性の眼鏡で世界を観る。
哲学は理系文系からは独立し、両者の調停・統合によって最終的な世界図を描く。
これらの真摯な学は、すべて「知る」ことにかかわっている、ともいえる。あるいは世界をどう「わかる」かという視座である。

しかし、知ることはわれわれが為すことの一部でしかない。

「知る」ことに対して、何かを「作る」ことは、また別の柱として屹立している。まったくちがう成立要素がそこにはある。
作ることにとって、よく知ることはとても重要ではあるが、「知る」ことで「作る」ことのすべてをカバーすることはでできないのである。
自分がデザインにかかわってきたせいか、とくに強くそう感じる。

最近気づいたことは、「作る」という、「知る」も含めた総合的な技能は、何かをうまく作りだすためだけにあるのではない、のではないかということ。何かを「作る」ために「知る」「考える」ことが、その行為をしようとする人自身に影響を与え、その人を「変え」、その人の総合的なパフォーマンスをあげる、ということ。
それは「知る」ことにも関係する。

そう結論してみて(考えを「作って」みて)、自分のモヤモヤしていたことがなんだか晴れた。

少し強引だが、自分はそう「表現」してみた、のだ。そういう考えを「作って」みた。それにどれくらいの信憑性があるのかはともかく、言い切ってみて、得られたものが大きい気がする。そうやって次の一歩を踏み出せる。できればまちがいや勘違いはしたくないが、それも前提のうち。人は完全ではない。
もしも、どこまでも「知る」ことにこだわっていたら、何もできなかっただろう。

「作る」も「知る」も、「する」ことの一部である。あるいは「生きる」の一部である。

サピエンスのことを考えてみたい。サピエンスは道具を作りその道具によって生存競争を勝ち抜いてきたのであるが、道具に直接よらない部分も小さくなかったのではないか。道具を工夫して作り出すこと、何世代にわたって改良に改良を重ね、出来映えを競い合い切磋琢磨すること、そして作ること表現することのよろこび、それがサピエンスを「磨いた」、と想像するのはむずかしくない。

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