人の不幸を望んだとき

下記の記事を読んで、人の不幸を望んでしまった時の私なりの制御法について考える。

私は兄の不幸を望んでいた。彼はお金にだらしないのが原因で、人間関係が破綻するのを見てきた。そんな兄が商売をしているのを知った時、また傷つく人がいるのではと勘繰る。兄のこれまでの行いを告げ口して、商売が失敗すればいいのにと思った。

嫌な人の不幸を望む気持ちを制御する、のが私は難しい。だからといって攻撃したり、貶めたりはしたくない。そうならないために、「折り合い」が大事だと思った。不幸を望む気持ちをどこまで許すのかと、その感情にどう向き合って良い方に行動していくか。

人の不幸を望んだ時、私はバイブルである古典を読む。自分の浅はかさを反省したり、自分が大事にしたい気持ちに立ち戻ったりする。古典を読んでいると、人よりも自分の気持ちに集中する。

古典を読んでも心が落ち着かない時は、イヤミス小説(後味の悪い)を読む。嫌なキャラが不幸になっていくのを楽しむこともある。物語だから罪悪感も少ない。それで終わりにするのではなく、私が人の不幸を望んだ原因は何なのか、不幸になったキャラの心情や背景などを考えている。

兄も仕事や人間関係の調子がいいように見せて、実は裏では満たされなくて、もがいて、信頼できる人もいないかもしれない。見えているものばかりで兄を判断しているから、不幸を望みたくなるのかな。見えない部分を想像したら、彼の不幸を望む気持ちは小さくなった。

結局は相手云々より、こうして自分の心と向き合っていくことでしか、制御できないんだろうな。

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