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ファンファーレと熱狂、人身事故、平凡な生活

もう世の中に対して言いたいことなんて何ひとつありません

わけがわからんことも分からん、その渦中に生きている。
「もう」ということは、以前にはそこそこ言いたいことがあったんだろう。僕はそこまで熱狂的なファンではないので、大学生の時なんかは最早「気取ってんな」とすら思っていた。この肉声の主に。でも今は不思議とそうは思わなくなった。それは、自分が自然と、なるようになって同じようなことをうっすらと考えるようになったからだ。そうして、べたに共感して、今に至る。

人身事故は、ある意味で人為的なものだけれど、そのほとんどが現実問題、自分の人生とは交わらないところの人生から発生していて、人災だけど、天災のように不意に、こちらに交わっているものの、予測できないタイミングで起こってしまう。そのせいで、例えば人に会えなくなったり、そういうことはないけれど、それで会社に遅れる大義名分が得られた時は、正直喜んでしまった。勿論、人身事故自体を喜んでいたわけではない。人身事故は、限界を突破すると起こる。コンビニに行くと、車を停めてふと横に目をやったとき、スマホを耳に当てながらハンドルにもたれかかり、うなだれている限界のサラリーマンを見かける。こんな田舎にも限界のサラリーマンはいるのだ、と感心し、すぐ、自分が限界サラリーマンだった時の事(実際限界であったとは思っていないが、直感的にもう少しで壊れるな、というところまで行っていた自覚があり、それは、ある意味で限界であるといえる)を思い出し、この人に横で悠長に同情している場合ではない、とマンガみたいに頭をぶんぶん振ってその考えを振り払おうとする。人身事故ではないけれど、昔、近所のおじさんが突然線路にものを投げまくって電車が止まり、それが原因でおじさん一家が自治体を追われた。それを人身事故があるたびに思い出す。同級生ではないがおじさんには、僕と同世代のこどもがいた。仲もそこそこよかった。あれは多分限界突破だろう。そう思えばやはり田舎にも、昔から、限界は存在していたのだ。子どもながらに、おじさんの限界突破とその子どもの人格は、より踏み込めばおじさん自身の人格は、関係はないだろうと、そんな今まで積み上げてきた信頼が一瞬で崩れるものなのかと、納得がいかなかった。その後も、同じ中学校で、同じ部活だったけど、そんな考えだった僕自身も、おじさんの子どもとは疎遠になっていった。


今の世の中、冷笑主義者は求められていない。この感覚は僕が普段接しているコミュニティでは歓迎されそうなものだ。僕もなんだか最近、物事に一定の距離をとることに辟易している。独立して、より公的組織と密に関わるようになって、自分事として捉えられるようになった。
それでも正直、世の中に対していいたいことは、すぐには思い浮かばない。選挙権は大事な権利だと思うが、選挙に行こうと人に言おうとは思わない。選挙に行く意味が分からないと言っている人にはそれなりに不快感があるけれど、いろいろ考えて選挙に行かなかった人に同調してしまう。僕は選挙にはいくけれど。

テレビを見ながら芸能人に文句を言っている親をみて、ムダなことをしていると思う。でも、芸能人に文句を言わない自分が、偉いようには思えない。冷笑的で、相対的であるようで、情熱とノスタルジーを否定できない。それは時に自分を突き動かすことがある。

映画を観ても何も思わない。ただ、本来知る由のない他人の、なんでもない(映画にするまでもない)平凡な生活を覗き見ているように感じられる作品に出会った時、いい映画だなと思う。カタルシスなんていらない。ただ、その「平凡な生活」にいかに真剣か、それが役者から伝わらないと幻滅してしまう。だから、「意味」というのは「平凡な生活」の中にしかないのだ。世の中に言いたいことなんて、あるはずがない。

あざます