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矛盾

「心配事の9割は起こらない」。気にしすぎは体に毒だ、といいたいのだろうが、実際のところは起きる。

これは勿論個人差はあるだろうが、僕はいわゆる「嫌な予感」というものが当たってしまう確率が非常に高い。

そのために、その嫌な予感から導かれそうな少し先の未来にどうにか行き当たることのないよう、死力を尽くす。といっても、具体的に行動することはままない。

死ぬほど心配するのだ。

これはつまり、死ぬほど慎重になりながらも、流れに身を任せることである。1秒に1回、家族の位置や水深、前方の岩などを確認しながらも、川に浮き輪で浮いている状態を指す。

人生は川の流れのようなものである、と思う。流れに逆らうことは、確かに可能である。ただ、その代わりに出会う新たな困難がある。気づかないうちに何かを失っている。それが自分にとって取るに足らないものだったとしても、そうなのかどうかを確認する間もなく、失ってしまう。つまり結局、大枠の川の流れに逆らうことはできない。人生はトレードオフである。

ただこれは、運命論的な考えでもない。そんな風にしか見えないとしても、実際そうではない。諦めろ、といいたいわけではない。乗り方を考えたほうがいいのかもしれない、といいたい。

川の流れに乗っているときに付きまとう不安や焦りは、ぬぐいようがない。生命の危機、つまり生きているということだからだ。

楽観主義にも見えるが実際はそうではない。舵取りをしている。「悲観的にもならず、楽観的にもならない」のではなく、悲観と楽観を両手にオールを漕いでいる。どちらかに曲がらないと岩にぶつかりそうなときには、もう一方のオールを懸命に漕ぐ。

槍しか持たずに闘技場に現れる戦士に憧れるが、実際の僕は盾を持ってガードしながら矛で攻撃する。片手剣タイプのサバイバーなので、ゲームの世界くらいは、と、片手剣を選ばない。

つまり、人は、矛と盾を抱えて悩む必要などなく、むしろ、進んで、矛と盾を両手に抱えて生きていくべきなのだ。

相反する二つの存在のバランスをとることの必要性について認識している人はある程度いるが、その存在を抱えることをポジティブに捉えている人は少ない。それを抱えることができてやっと大人になれる。つまり自分の盾を貫くのは、もう一方の手に持っている自分の矛であるべきなのだ。

あざます