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今年のまとめ

ちょうど先週あたりで、東京から地元に戻ってきて1年になる。時の流れは早いもので、それを象徴するかのように、「早いなー」とすら思わなくなっている。恐らくこれから、時のたつスピードは加速度的に加速するんだろうと見当がつく。

半年くらい前に、衝動的に今までTwitterで使っていたいわゆる「本アカ」を消してしまった。かなり衝動的だったが、一方で熟考の末の決断でもあったので、結局そのままアカウントは復活されず、本当に完全に消えてしまった。

とはいえ、なんだかんだで、いざとなれば復活できる方法が存在すると心のどこかで思っている自分はいた。が、少なくとも素人レベルにおいて、1か月以上経過した削除アカウントの復活はできなそうである。それが分かった瞬間、少しだけ、ほんの少しだけ、アカウントを消したことを後悔した。

これはすごいことで、私はかなり、後悔をしないでお馴染みの人間なのである。なのに、そんな人間が、重ねてになるが熟考の末にした行動に対して、後悔をしているというのは、結構すごいことなのである。


ただそれは、やはり、私のした「本アカウント削除」という行為の大業さを意味するものではない。シンプルに今のメンタリティーの、全盛期と比較したらという建前つきでの不健康さ少々、を表しているのだと、自分では思っている。

曲がりなにりにも2014年から始めて約8年にわたって運用してきたアカウントであり、それ即ち私の「青春のすべて」であるといっても過言ではないものを、あくまでも衝動的な発端から、未来永劫葬ってしまったのだから、と擁護する声も聞こえてきそうなのだが、いや全く、擁護する人もいないほどに、私は今、孤独であることに意味を見出そうとしている、そのさなかにいて、まだまだ自分なりの答えを見つけられていないということの証左が、先ほどからつらつらと述べているようなことなのである。

「さみしい」なんて簡単な言葉で片付けてしまえば、片づけられるなら「さみしいんかい」とか「強がんなよ」で終わることなのだが、本当に、残念ながら、これはそういう感じでは片づけることができない。何故なら、これは、私の、私の未来に対するいわば”賭け”なのであり、しかも珍しいことに楽観的なそれではなく、割といろんなものを”懸け”ているので、たから、じゃあどうするかとかではなく、まだ「実験」の途中なので、どうこう言って、席を立つことはできないのだ。

そこまで分かっているのなら、、、もとい、とりあえずこうして文字に起こすことで思考を整理する、または自分の目論見を再確認する、ということは定期的に行わねばならず、さらに言えば今の私の置かれている状況からすればそれを偶然に身を任せるのではなく自ら設定していかなければいけないので、うかうかしていたら本当に、すぐに2年経ってしまって、「人生にはどうにもならないこともある」なんて一番何者でもなかった時代に人から言われた言葉を、自分事にしてさらっと言ってしまいそうな気がして、気がふれそうである。ともかく今年は、享楽的に生きてきた今までの私とは袂を分かつ、人生のメインである第2章、その始まりの年であった。完全に、大器晩成一点賭けモードである。

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