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すいかの衝撃

幼いときに父の田舎で、

今は亡き私の祖父が白の肌着姿で

大きなスイカを抱えて私たち孫に食べさせるために、

外から帰ってきた。

JR加古川線という、

当時まだディーゼル車ののどかな単線を家の敷地の側に走らせ、

その線路を足で越えていくと

小さな菜園があった。今もある。

幼い頃に線路をこわごわ渡った記憶はあれども、

そこに出入りした記憶はなく、

農作業の記憶もない。

これはうちで採れた野菜で、などと祖父母が語る姿も記憶にない。

今考えると不思議なのだが。

そのスイカだけは鮮明に覚えている。

スイカは買うものとして町の中で生きていた私が、

農家製ではない自家製スイカというものがこの世に存在しているのを

知った初めてだったからだ。

「スイカって家でつくれるんだ!」

町の子らしい驚きである。


力仕事が似合わない祖父が大玉スイカを抱えていたのが、より印象的だったせいで、

30年近く、祖父が畑をやっていたと思い込んでいた。

3年前、おじ夫婦を訪ねてその話をした。

「おじいちゃんは全然畑やらんかったで。

全部おばあちゃんがやっとったんやで。」

と笑いながら教えてくれた。

衝撃だった。


30年近くスイカ栽培の尊敬の念を向ける相手を

間違えていた。


ワシが作ったとはじいちゃんは確かに一言も言わなかった。

うちでとれたとは言ったけど。


そして私の亡くなった父方の祖母は、

「我が」という雰囲気が全くない人で、

とうとう自分の成したことをほとんど遠くに住む孫たちには語らずに

私が21のときに亡くなった。

多分聞いたら答えてくれたに違いないのに

今なら畑のこと、着物のこと、

聞きたいことが山のようにあるのに。

インタビュアーとしての素質が当時ゼロだったばかりに、

貴重な祖母の言葉を引き出し損ねた。


そしてスイカの季節になると、

「我が」という雰囲気のない

無茶なことなど絶対しそうにない、

いつも静かで親切な祖母を思い出すようになった。


孫の私は

「我が」「我が」ばっかりやな、と我が身を振り返る。

そんな私もスイカを作るようになった。

大玉にはまだ手が出ない。

小玉スイカをおっかなびっくり作っている。

今年は昨年2個より微増の収穫である。

つまり計画よりほぼアカンかった。

私とは正反対で細やかな作業のできる祖母の畑を

見てみたかったと思う。







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