お笑いレベルってあるんだろうか?『大怪獣のあとしまつ』から考える三木聡
知らない人向けに書きたいので自己紹介させてください。
私はコントの舞台とWEBのおもしろ記事を書いてる大北栄人と言います。前者は明日のアーで9年目、後者はデイリーポータルZで17年目になります。興味分野が「くだらないこと」で独自に調べたことを記事にしたりもしてます。
コントの舞台といっても芸人さんじゃないので、自分の好きな「くだらないこと」をやってます。そうするとぶち当たる問題って見当つきますか? それは「わかってもらえない」ということなんですよね。
わかってもらえない冗談ってなに?
芸人さんは目の前のお客さんを笑わせることを目的としますが、その枷がとれると自分がおもしろいと思うことをやるようになります。それは他人にとっては「わからない」ことがしばしば。それってどこに問題があるんでしょう?
「子供が好きそうな笑い」というのはイメージできますよね。変な顔とかね。これはある。
であるならば……
逆に「大人の中でも大人な人が好きそうな笑い」
というのもあることになりませんか?
松本人志は「お笑いレベル」という言葉を使っていました。松本を批判した中田敦彦は自身の笑いを「ドストエフスキーを読む人なら分かる」と言いました。
お笑いにレベルなんかないだろ
こうした「お笑いレベル」という考え方を否定したい気持ちってありませんか? 私はあります。なんだかえらそうだから。「何がおもしろいのかわからない」状態って疎外感ありますよね。実際、「ユーモアに明るい人はコミュニケーション能力が高いとされモテる」という現象が世界中のどこでも見られるそうです。ということは「ユーモアがわからないのは恥ずかしい」という現象も世界中であるでしょう。
そんなかわいそうな人を生む「お笑いレベル」なんて考え方はないほうがいい……んだけども、子供が好きそうな笑いがあるなら大人が好きそうな笑いもありますよね。「わかってもらえない」ってなんなんだろうなと考えることが最近あるんです。それはやはり「お笑いレベル」周辺の話な気がしてます。
さてそんな悩みが最近特にじわじわきていたところ、20代のお笑い好きの知り合いが『大怪獣のあとしまつ』がシモネタばかりだったとツイートしてたんです。あのくだらなさの巨匠・三木聡がそんなことになってるの? と気になって見てみました。
やはりそんなことはありません。三木聡ならではの珠玉のギャグ(笑わせるための言動や行動、冗談、という意味で使ってます)は健在。それは三木聡自身がかつて「辛(から)いギャグ」という言葉で呼んでいた「大人が好きそうな笑い」でもありました。
三木聡の辛いギャグを改めて考えたい
でも怪獣映画としての評価は聞くも、誰もそこに言及してない……これは私が救わなければ、という使命感からnoteに向かい、以下、noteに搭載されたAIツールに見出しを考えてもらいました。
1. 三木聡監督作『大怪獣のあとしまつ』の不評とは裏腹に、彼のおもしろさは健在
2. 三木聡のおもしろさの真髄は平たさと暴力性にあるのか
3. 平たさと暴力性が三木聡の作品にどのように表れているのか
4. 『大怪獣のあとしまつ』の不評が伝わらない三木聡の魅力とは何か
三木の辛いギャグ、松本のお笑いレベル、中田のドストエフスキーを読む人には分かる笑い。すべて同じことです。大人でないとわからない笑いについて、三木聡を振り返ることでちょっと考えてみたいんです。せっかくなのでAI見出しに則っていきましょう。
1. 三木聡監督作『大怪獣のあとしまつ』の不評とは裏腹に、彼のおもしろさは健在
不評で話題になっていた『大怪獣のあとしまつ』配信で見ました。見る者に怪獣映画として期待させるガワであったにも関わらず、中は三木聡だったので混乱する人も多かったでしょう。
この映画、出だしを変えて想像してみてください。
「岩松了とふせえり率いるお荷物省庁、特殊環境保全庁に怪獣の死体処理がたらい回しにされてくる。新人のオダギリジョーがその大きさに驚く。」
おもしろそうですよね。ちなみに3人とも出てるんです。でも出だしは大作怪獣映画なんです。全体200シーンある中で最初にギャグが出てくるのは20シーンめ。それまでバシバシに怪獣映画ですし、その後も岩松了らの活躍は部分的です。これは「大作怪獣映画を作ろうとして予算を集めてきたから」という理由がありそう。
雑誌『シナリオ』2022年4月号掲載されて同作添付の三木聡のコメントを読みました。全体の方向性についての悩みが匂わせる程度に書いてありました。
映画を見ると「デウス・エクス・マキナ」(最後に神様が出てきて無理やり大団円するという舞台用語なんだそうですが)というキーワードが出てきて、実際にそんなラストを迎えます。
これは怪獣映画撮らないといけなくなった三木聡が怪獣映画について再考し「ウルトラマンってデウス・エクス・マキナだよな」という発見があったんじゃないでしょうか。
たしかにそうかもしれないし、その見方はおもしろい。だけど私を含めてそんなギリシャ悲劇発端の教養はなかったというのが、賛否両論という結果を生んだのでしょう。
ですが、そんなことは私はどうでもよかった。シモネタだと聞いて三木聡死んだのかなと心配して見てみたんですが全然死んでなかった。きらめくような三木聡のギャグがあったんですよ。劇中のギャグで一つ大きく笑えた、それだけで満足でした。
その部分の脚本を引用しますね。(国防大臣=岩松了、環境大臣=ふせえり)
ここまで。シンプルなくだりです。怒ってる人を投げ飛ばす。これだけ。
一回映画を見て、忘れたころに脚本を読んで、また映画を見たんです。脚本で読むとこの部分がギャグだとは分かるものの、あまりピンと来ませんでした。が、再び見た映像の仕上がりは……最高。
大いに笑いました。同時に「わかってもらえてないのでは」という思いもありました。この「わかってもらえない」感覚の正体ってなんでしょうか??
ギャグの構造を詳しくみていきましょう。
要素としては
「(閣僚会議という)厳粛な場で」「怒っている」「おじさんを」「おばさんが」「いきなり」「ただ単に」「投げ飛ばす」
といったところでしょうか。
「厳粛な場で」というのは基本的な構造としてとても重要です。「厳粛な場で」「ふざけ」ればそれだけでギャグは成立しますよね。お葬式でハゲヅラ、校長先生の言葉で裏声、なんでもいけますね。だからこそ他の要素が重要です。
そうすると「ふざけ」にあたることは「いきなり」×「ただ単に」×「投げ飛ばす」ですね。ふつう大臣は投げ飛ばさないですからね。この「ただ単に」が新手なんですよ。
「ただ単に」。近いといえば千鳥の漫才でさんざん変なものを出した寿司屋が出す「イカ2貫!?」が近いですね。でもそれはさんざん前フリがあったうえですし、それでもそこまで大ウケはしないだろうという感覚もあります。
「ただ単に」というのはノーマルに近しいことですから(ギャグというのは基本はノーマルに反するエラーです)これをギャグとして見せるのはめちゃくちゃ難しい。「わかってもらえない」の核はここにあります。
「三木聡、このギャグおもしろいけど、地味すぎない?」そういう思いが生まれるわけです。このギャグにおいてはこれが「わかってもらえない」の正体でした。
それでもこれが最高のギャグとして成立できたのは色々な要素があります。国を背負っての有事である場という大きな大きな「厳粛な場」であることは一つ。ふせえりや岩松了の技量もそう、運動できなさそうな人がアクションやってることも一つだし、それまで言葉のギャグで積み重ねてきたこともありそう。
とにかくこうした色々な要素から新手のギャグが生まれたんです。これが素晴らしい功績なんですよ。世の中の新手のギャグというのはそこまで新手じゃないことがしばしばですから。たとえば去年のM-1で話題になった音符を運ぶというギャグはバカリズムの日本地図の持ち方に似ていますね(ただしその処理については素晴らしいものがあります)。
(ところで「なぜ新手が良いの?」という疑問については、私は前述のリンクの「くだらなさとはエラーを発見した脳の喜び」という考えに基づいて、何度も見たエラーより新規領域のエラーの方が喜べると考えています。)
ちなみに作品で初めてギャグが出てきた脚本部分はこちら。
これ映画見てた人は「なんだろう?」と思ったと思うんです。さっきよりも「辛いギャグ」です。
「玄関開けたときになんの動物が死んでたら厭かな…」これは黄金期でもある90年代後半の三木聡のギャグでシティボーイズの舞台や自身のインタビューなどに登場します。
三木辛いギャグの代表例と言ってもいいでしょう。これの何がおもしろいかわかりますか? 私も「なんとなくおかしみがあるな」程度にしかわかりませんでした。ですが三木聡は重要なところでこれを使いますし、未だに映画の最初のギャグに選択しています。よほど好きだぞこれを。ここに三木のコアがあるんじゃないでしょうか。
ここで先程の「シンプルに投げ飛ばす」を思い出してください。コアがあるいなら共通するものがあるはずです。私が感じ取ったものをここでは「平たさ」と「暴力性」と呼びます。確信はありません。が、いいポイントである気がします。
2. 三木聡のおもしろさの真髄は平たさと暴力性にあるのか
「平たさ」は造語に近い評価軸です。「結局、無印良品が一番狂ってるんじゃないか」みたいな言説が近いかもしれません。「ノームコア」「当たり前性」と呼べばイメージしやすいでしょうか。
知り合いの俳優が「当たり前のことっておもしろいと思うんですよ」と言ってまして、それを私は「平たさ」と呼んでるなと思い当たったんです。
私達の日常を構成するのはこの「平たさ」によってです。冒険紀行ものの散文で日常にルーティンができることが気持ちよい、ルーティンとは快楽だ、と書かれたものがありました。ジョブズが毎日同じ服を着るのも当たり前、そこに考えが及ぶことのない平たさであり、それが日常だと言えます。
一方、暴力性はその反対概念です。自分以外のどこかから突発的に起こる大きな力です。そこにはしばしば悪意が入り込みます。
日常に突然暴力が現れる。それが三木聡のおもしろがり方の根本となってるのではないか。それは死が隣り合わせにあることを楽しむような人間の根本的な性質に関わるようにも思います。
岸和田のだんじり祭りとかですよ。あれって人が死ぬって言われてもイメージつかなくないですか? ゆっくり家みたいなもの引く祭りですよね。それでもむりやり速くして人が死ぬところまでいきます。死の隣り合わせを楽しみにいってるんです。ジェットコースターもそう。人は死に向かうことをたまに楽しむ。三木聡のギャグってそういう享楽的と言ってもいい要素があると思うんです。
いや、ジェットコースターとか当たり前のことじゃん。と思われるかもしれません。ですが、シュールやナンセンスといった小難しめの言葉で形容されがちな三木聡のギャグが日常とふすま一枚隔てた死で読み解けるとしたら、身近な感覚でおもしろいと思いませんか。
3. 平たさと暴力性が三木聡の作品にどのように表れているのか
三木聡とはなにか。それは現代日本において「くだらなさ」を最もうまく形に残した人でもあります。一番おもしろい人です。
星野源やダウ90000蓮見翔がどちらも伝説的なギャグとして言及したものに『ピアノの粉末』というコントがあります。仲人に話をしにいきます。その仲人はピアノを粉末にしたものを飾っていました。
私はこのコントにおいて、情緒×ナンセンスの部分を評価していましたが、ここにも粉末という暴力性が潜んでることに思い当たりました。そしてここでいう「平たさ」とは「ピアノ」です。
ピアノ。口に出して言ってみてください。頭の中が平たくなりませんか? バイオリンだとどうですか? ピアノより少し平たさがないですよね。
名コピーライターの川崎徹さんがバケツを使ったCMを作ったときに、これはバケツでなければならない、と言ったそうです。バケツ。これも平たいですよね。モップだとダメなんです。
ピアノやバケツといったものがもつ概念は大きく広がっていて、平たく平たく広がった海のようではないですか。ピアノの発表会、ピアノの先生、どれも良いイメージばかり。
そうなんです。言ってみれば大人のドラえもんでもありますよね。それが粉末にされる。そうです。これは言ってみればドラえもんのパロディでもあります。ドラえもんのバッドテイストパロディが嫌な大人は何をありがたがればいいのか? ピアノの粉末です。でも……
「ピアノの粉末ですよ」
と、これだけ聞かされてもまだおもしろくないですよね。そこからの工夫が三木聡とシティボーイズ(&いとうせいこう!中村有志!)らにはあったわけです。
そうなんです、これはドラえもんから続く単純な構造だったんです。この現象はモンティ・パイソンにもあります。
哲学者たちがサッカーをしますよね。あれがなぜサッカーなのか。イギリスにおいては労働者に人気のあるスポーツだからではないでしょうか。哲学者(上層)たちがサッカー(下層)という逆のことをさせられているという意味ではこれもまた逆なんです。バカ歩きするお役人も逆。
すぐれた「シュールな」と言われるギャグはシンプルな構造をとってることがしばしばあります。
4. 『大怪獣のあとしまつ』の不評が伝わらない三木聡の魅力とは何か
AI見出しのテキストの意味がわからないのですが、怪獣映画としての評価はしにくいが、投げ飛ばすギャグが一つあるだけで私は大満足でした。という話でした。
コメディの新手はわかりづらいんですよね。脚本に三木の名前があれば「……来るぞ」と身構えましょう。そうすると新手のギャグを見過ごすことも減るでしょう。
三木聡は本当に素晴らしい。こうした新手を切り拓く界隈において素晴らしい功績を残しています。
他にもバカリズムが大活躍しているのは素晴らしいですが、吉田戦車やバカドリルを描いたタナカカツキ&天久聖一などくだらなさの新手を生んだ人々に紫綬褒章くらいあげてほしい。ブラシ組合の会長を20年くらいやるのと変わらないはずです。いずれおほしんたろうさんやぼく脳さんらにもあげてほしい。
ああ、くだらないな、と思えることは歳を重ねるにつれ少なくなっていきます。人間は学習する生き物なので、今度また誰かがいきなり投げ飛ばすギャグをやっていると、ああ、前に見たな、で終わってしまうでしょう。
そうした新手をやってくれる三木聡を称えて今日は終わらせてください。
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