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生涯の仕事

初心にかえれ。
誰に言われたわけでは無いが、ここのところそんな言葉がよぎる。
そもそもなにをしたいと思ってわたしはnoteを始めたんだっけ。
そうだ、そうだ、そうだった。
愛するタロットについて沢山の方に熱く語るためだった。

なので、ここからは真面目に正座して背筋を伸ばして(あくまでもその心持ちで)記したいと思う。


ある日ふと思った。
息子と障がいのある娘のために生きてきた母、そして妻という『役割』ではなく、唯一人のわたしとしてこれから何をしたらいいんだろう。
生きがい?自分探し?
そんな大袈裟なことを考えていたわけではない。大層なことをする気もなかった。
結婚し妊娠を機に主人に請われて家庭に入ったわたし。
それからは何もかも主人におんぶに抱っこで生きてきたわたし。


社会経験といってもほんの腰掛け程度。
持っている資格は運転免許くらい。
無い無い。
何も無いんだわたし。
愕然とした。
そんなわたしの脳裏に静かにぼんやりと浮かんできたのがタロットだった。
最後に触れてから数十年経っていた。
いちからきちんと学ぶのは大変だったが苦にならなかった。やはり好きだということは強い。


師と仰ぐ人が最後に会った時に言った言葉。
わたしたちのところには時に親はおろかご友人にさえ誰にも言えない悩みを抱えていて、それを聞いて欲しくて最後の砦だと信じてわたしたちのところにやって来る方もいるの。
だからそういう人たちに希望をあげられるようなカードリーダーになってね。
お願いね。



そして師はこうも言った。
たとえ車椅子になったとしても頭と手が動かせたらリーディングはできるから。
死ぬまで人と関わっていける仕事なのよ。
素晴らしいじゃない?


普段べらべらと余計な話はしなかった師がその日はいつになく饒舌だった。
あとはあなたに頼んだわよ。
重いなぁと内心全力で拒絶したのだが、曖昧に笑っていやいやと首を振っていたわたしに強く迫った真剣なまなざし。
ね、お願いね。
あなたならできるから。


それは遺言となった。


数年後、わたしはYouTubeを開設していた。
他人様の悩みを聴き、鑑定料を頂き、タロットカードで答えを出してお伝えするようになった。
感謝され、喜ばれ、何より気づきを与えてあげられた。そして今まで見たことのないお金が振り込まれてきた。
やり甲斐を感じる日々。それなのになぜだろう。
ただモヤモヤしてくる。
善いことをしているはずなのに、薄く広がる不安のようなもの、収まりが悪い雨戸のような出っ張りを感じるようになった。
何かが違う。おかしい。
違和感を抱えながら他人様をみることはできなくなった。


それでもしつこくカードはわたしを離そうとしない。
諦めるなというように。
ただ正直にいってこれからもタロットを続ける気力は半分以上失っていた。
noteに出会ったのはその頃だ。
見える世界が広がった。
こんなこともやりたかった、何より伝えたいことをこうして書きたかったということに気づいた。


そんなある日、わたしの目はひとつの記事に何気なく留まった。

これだ!
すぐに申し込んだ。迷いはなかった。
これを受講してどうするかとか、その先は一切考えずに自分の直感に従った。
大いに学ばせていただいた。
今まで抱えていた疑問にやっと答えを得た。
そういうことだったのか。
目から鱗だった。
どうやらわたしの違和感はこれを伝えたかったらしい。


タロットやオラクルカードで出たことを伝えることをわたしは『占い』とは思っていない。
(他人がどう捉えようとも)
むしろ、三者会談のようなものだと考えている。わたしとお相手とカードとの。
カードのメッセージは決して上からの言葉ではない。(時にそうだとしか言えないことはあるが)
むしろ人間の考えや生き方から生まれた哲学のようなものだ。


答えは常にその人自身の中に在る。
今まで生きてきた人生で経験して学んできた生きた体験の中に在る。
カードはそれを気づかせるためのツールに過ぎない。
カードが上からの言葉になってはいけない。
平伏す存在であってはならない。
あやかしであってはならない。
わたしは悩める人たちが自分を取り戻すお手伝いをしたいのだとわかった。
悩みを解決するのではなく。
助けるのではなく。
癒すのではなく。



自分でできる力を皆が持っていることに気づかせること。
これがカードと『書く』という行為でわたしがやりたかったことだとようやく気づいたのだ。
自分自身で立つ。
この瞬間に立ち会ってくださって、ありがとう。
ここから始まるんだ。





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