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単力

2008年春の福岡のコンサート会場の楽屋で生涯忘れられないことが起こった。

札幌、東京、名古屋、大阪、島根、福岡と回った日本人なら誰もが知るシンガーのT氏の全国コンサートツアーに初めて参加させてもらい、その千秋楽が終わり楽屋で着替えていた頃に、マネージャーさんから「お一人ずつ呼びますのでTさんの楽屋にいらしてください」

一番新参者だった自分は最後だ。

何が起こるんだろう? ドキドキしながら待つと間も無く呼ばれた。

「トントン」T氏の楽屋を訪れると満遍の笑顔で立っていた。
「このツアーどうだった?」
「最高の経験をさせていただきました」

笑顔で、コンサートパンフレットの表紙にスラスラと達筆で何かを書き
「卒業証書です」と両手で丁寧に渡してくれた。
そこに書かれていたメッセージを読んで思わず涙が溢れてきた。

「寄り添ってくれてありがとう」

それまでピアノやフルートなどを経験し、13歳からベースを始めて18年。
初めて本当に自分の求めていたものが実現した瞬間だった。学園祭でチヤホヤされ有頂天になった経験よりも、シカゴの音楽大学で毎日氷点下の中を重い楽器を持って通ったこと経験よりも、ミネアポリスのジャズコンテストで賞状をもらった経験をも超えた経験だった。音楽の道でプロになる。
現代のようにSNSでその楽器の演奏を気軽にアップして、見る人に見られたら声がかかって大きな仕事に結びつくような時代ではなかった平成の時代。
100人いれば100通りのプロへの道があるのだと思うが、自分は「単力」を信じて貫いてやってきた。常にグループに属したり、人が多い場所での仕事がほとんどだったので、「孤独」とはまた違う感覚。1人で鬼動くという「単力」これはあくまで私の例であり、それぞれ皆さんが持っているバックグランドも違えば、育ってきた環境も違う。
これをすればプロになれるというものではないことを先に書いておきます。


27歳でそれまで6年近く住んできたアメリカ、シカゴを離れ日本に帰国した。
帰国後に多くの人から、アメリカでプロになろうとは思わなかったのか?と聞かれたことが何度もあったが、その気持ちは無くも無かった。

19歳で「日本でスタジオミュージシャン」になる、と決めた。
アメリカで修行をして知識を得て日本でプロのベーシストになる、と決めていたので
その夢は6年経っても変わっていなかった。


シカゴでは様々な経験をした。日々刺激しか無かった学生時代の中でも、自分の単力を初めて信じた経験があった。

21歳。当時はインターネットは学校の図書館でしか使えなかった時代。授業が終わり連日のようにその情報の宝庫のようなパソコンを使うために通い詰めた自分は、学校の授業に物足りなさを感じていたので、アメリカ中の名だたるベーシストに「日本からやってきたベーシストです。ベースを教えてください」という文章を毎日のようにメールで送っていた。

グラミー賞にノミネートされたベーシスト? 関係ない。返信は帰って来ないかもしれないけど送るのはタダだ。若さと勢い、そして知恵を絞ることには長けていたのかもしれない。

この身の程知らずの若造ベーシストはメールの返信が来ているかを楽しみにしながら毎日この図書館のメールボックスのチェックをしていた。

2週間ほど経ったある日、未読メッセージが点いていた。

見ると、ロサンゼルス在住のMelvin Davis(当時から現在まで30年の間、アメリカのソウル歌手の大御所チャカカーンのバンドマスターでありベーシスト)から返信が来ていた。

「3ヶ月後にシカゴに行くからそこで会おう!」

信じられない返信の内容に舞い上がり、静かな図書館に「ヨシ!」とひとりガッツポーズをしていた。

とそこまでは良かったが、当時はまだノートパソコンはほとんどの人が持っていなかった時代。彼もその後数ヶ月に渡るチャカカーンのワールドツアーではパソコンを持っていなかったため、やり取りはその一回で終わった。

「どこで?どうやって?いつ?」

会う具体的な段取りが何も決まっていないまま3ヶ月の間、毎日が過ぎていった。

そしてタウン情報誌でシカゴの中心にあるグラントパークでチャカカーンの無料のコンサートが行われることを読んだ。

会える段取りが何も決まってないまま当日になった。会場へ行ってみると、人人、そして人。チャカカーンのコンサートというだけで全世界のどの会場も売り切れになる中で、無料でしかも夏の野外のコンサート。当たり前だ。あとで知ったが2万人が来場していたらしい。

コンサートが始まり、遠いステージ上にMelvin Davisが見えた。ヒットナンバーが次々と演奏され、周囲は飲んで踊って大騒ぎする中「どうやって彼に近づこう?」と、そればかり考えていて、音楽はほとんど聞こえていなかった。

コンサートが終わり、人の流れが出口に向かう中で私も向かった。そして敷地を出る直前にステージ裏手にリムジンが見えた。

「ここで待とう」

当然出待ちをするファンが集結し始めている。その人の合間を縫って最前列のフェンスまで辿り着いた。

ここにチャカカーン、そしてバンドが出て来るはず。と読んでの行動だった。15分、20分、25分と過ぎた頃にドアが開いて大きな楽器ケースを背負ったMelvin Davisが出てきた。

どよめきが起こる中、自分でも信じられないほどの大声で彼の名前を呼んだ。

訝しげにこちらを見る彼に向かい「I’m Japanese bass player. The Email guy!!」

すぐにピンと来たらしく、こちらに近づいて来てフェンス越の握手。そして、なんとそのまま手を引っ張られ、セキュリティーを通過し、そのままバンドメンバーが乗るリムジンに一緒に乗るというまさかの結果をもたらしてくれた。

翌朝、彼のホテルの朝ごはんに招いて頂き、音楽の話、彼にどれだけ会いたかったを2時間かけて話した。在米2年ほどでまだまだ会話もおぼつかない私の話に笑顔で聞きながら、丁寧にゆっくり話してくれる、そんな優しさを持つ彼との関係は今でも続いており、一年に何度かツアーで来日する度に食事をして近況を語り合っている。


生まれ育ったこの日本でプロになる。
過去に何度も自力で道を開いてきた自負もあり、その「単力」が試される新しい世界の幕開けである。

「アメリカから帰ってきたベーシスト」という話題性がもてはやされるのかと買い被っていたら全く違った。出鼻からズタズタ。

日本の音楽の世界は音大で繋がった友達からの紹介や、デモテープで合格したり、コンテストに出て優勝したり、いわば「日本の土壌で育った日本のミュージシャン」の方がもてはやされ、さらに大きなチャンスを得ていく土俵に乗っていることを後で知ることになった。

自分に何ができる?
まずは友達を作らないと始まらない。

これまでシカゴで学校帰りに散々やってきたジャムセッション(ジャズバーなどのお店に決まった日に初めて会うミュージシャンが集い一緒に音を出して交流を深める場)に行こう。

当時コールセンターでテレフォンアポインターのアルバイトをした帰りに、楽器を持って都内のお店へ向かうことを週に何度も続けた。

地道に通うことで友人はできたが、そもそもコンサートツアーやホールツアーに乗るような売れ線のミュージシャンは忙しいのでそんなお店に来ないことを後で知ることになった。

なかなか大きな仕事が回るメインストリームの音楽業界への糸口が見出せない中、アポイターのアルバイト中にふと気が付いた。

やり方が違う

当時のアルバイトは国際電話の電話営業。アルバイトであっても毎日の目標に追われ、成績を求める怒号が飛び交う中で必然的に打たれ強くなっていた。

電話をかけた瞬間に「国際電話なんていらねーよ!」とガチャ切りは当たり前。どうやって電話をかけてきたのか、と30分説教されたり、その筋の事務所に電話をかけてしまい、電話口から手が出てきて胸ぐらを掴まれるような感覚の経験も何度もした。

この打たれ強さと話術を自分のマーケティングに活かす。

売り込む先は、全国のレコード会社、芸能事務所、インペグ(ミュージシャンを斡旋する会社)、その情報を集めるための図書館には行く必要がなくなった自宅のパソコンで収集。

数百社を全てをリストにして、毎日毎日、仕事帰りから寝るまでひたすら自分の存在を知ってもらう紹介のメールで送り続けて6ヶ月。その他、デモテープも送り続け、仮病を使ってオーディションも受けに行っていた。

9割ほどの会社からは返信は無かったが、返信を頂いた会社にはアポを取り、挨拶に出向いた。

単力がモノを言った。

東京のある会社様(A社)から録音の仕事を頂く機会に恵まれ、1件が終わるとまた1件、という具合に呼んでくれるようになった。

何かが噛み合った。

リストへのメールはもちろん連日続け、アルバイト、録音、売り込みを続けて行く中で別の会社様(B社)からも連絡が来るようになり、日本で一番大きなアイドルグループの録音にまで参加できる機会も頂いた。

それでも全ては一件一件の仕事であり、いつ無くなってもおかしく無い状況であることは分かっていたので、昼はアポインターとして怒号に揉まれ、夜は録音仕事、帰ったら売り込みという流れが定着していった。

当時車を持っていなかったので、録音仕事が延びて深夜になった時は終電で帰れるところまで行き、2時間歩いて帰ったこともあった。

大変だったけど嬉しかった。

自分がこれだ、と決めた道が少しずつ開いていっている感覚があった。

「ツアーの話があるけどやってみる?」
A社からの連絡だった。

「やらせてください!」

芸能界では大御所と呼ばれるアーティストのお二人がジョイントツアーを行う、という話で
二週間のリハーサルを終えて日本全国を周り16公演を経験した。

そのツアーが終わる頃に別のグループのお話をA社より持ちかけられ、すぐにスタートした。

前日に北海道で演奏していようが、朝一番の飛行機で鹿児島から帰ってこようが、それでも融通をきかせてもらい、アポインターの仕事は続けた。

「オーディション受けてみる?」
今度はB社からの連絡だった。

「もちろんやらせてください!」

日本で恐らく一番知られているソロのバイオリニストのオーディションの情報が入ってきた。

合格

いよいよ渦の回転が早くなってきた感覚がある中、都内にあるバイオリニストの自宅に招かれた。

そこで組まれたプロジェクトのベーシストとしてアルバムの制作に携わり、夢にまで見た大メジャーレコード会社からアルバムを3枚発売。その中の一曲が関西のテレビ局の報道番組のテーマソングとして使われたこともあり、クリスマスの朝に生放送で演奏することになった。

クリスマスイブの新幹線に乗り大阪に前日に入る。それまでビジネスホテルしか知らなかった自分には衝撃的な広さのホテルをテレビ局は用意をしてくれていて、イブの夜をひとり静かに過ごしながら自分の単力を褒めた。

鬼動く

しかも知恵を使って。手応えがなかったら即切り替える勇気と決断が大切。

このプロジェクトで出会ったバンドメンバーは気が合うメンバーでツアーは楽しく続いたが、夢は長く続かなかった。

プロジェクトに翳りが見え始め、それまで新幹線で移動出来ていたバンドは自分の運転で一台のワゴン車で東京、大阪、名古屋へと最後のツアーをしていた。

「お互い、何か良い話があればまた連絡取り合おう」

そう誓ったもののそんなに良い話はすぐにある訳では無い。半ば諦めに近い感情が起こって半年ほど経った頃に、このプロジェクトのピアニストが大きな現場で活躍していると風の噂で聞いた。日本人なら誰もが知るあのアーティストT氏の仕事らしい。

仲間の活躍に嬉しくなっていたある日、東京のライブハウスでバッタリ彼と会う機会があった。

開口一番「○月○日から4日間空いてる?」と聞かれた。

空いている旨を伝えた上で内容を聞いて驚いた。T氏の現場である。

まさかこの自分があの方のステージで弾くことになるとは。
自分よりも喜んだのはその世代の両親であったことは言うまでもない。

一日一日とそのリハーサルが近づく中で、テレビやカラオケで何度も聴いた名曲の数々の譜面が送られてきた。

間違っていなかった

大阪での盛大なコンサートでその記念すべき夜が終わった。
打ち上げで手が震えながらT氏と握手をしてその手を洗うこともできずに翌日東京へ帰った。

記念すべきコンサートといっても一日で終わってしまう訳なので、当然翌日からアルバイトが続いていた。
一週間もした頃、T氏の事務所から電話がかかってきた、マネージャーさんからの電話だった。

そこでまた耳を疑う話を聞くことになった。

その翌年にライブアルバムを作るプロジェクトがあり、私にベースをお願いしたいとT氏からの伝言です。さらにそのアルバムのツアーもお願いしたい、と。

嬉しい反面、何故自分が選ばれたんだろう?あの大阪のライブ一回で自分の何が分かったんだろう?と電話を切ってから自問した。

翌年正月過ぎからリハーサルが始まった。
緊張の初日。スタジオで改めてご挨拶をすると満遍の笑顔で「よろしく!」

そのアルバムのコンセプトはファンからのハガキの投票で収録曲が決まるという内容だったらしく、二日目のスタジオの床には足の踏み場が無いほどのハガキで埋め尽くされていた。

ファンからの熱い思いが詰まったハガキを踏む訳には行かないのでトイレに行く度、壁伝いに爪先歩きで歩いていた。その様子をT氏は見ていたようだった。

翌日のT氏のブログに「今回初めて参加してくれるベーシストはハガキを踏まないように爪先で歩くような優しい心の持ち主です」と紹介されていた。

演奏のテクニックでも音量でも持っている楽器でも無い。自分は心で選ばれた、と理解した。

単力がまた一つ実った

その年から毎年発売されるアルバム、ツアーに参加させてもらう中でまた一つ新しい話が出てきた。

T氏が元々活動をしていたこれまたビッグネームの3人のグループへの参加のお話だった。

どんな規模のツアーなのか高揚感で待ちきれない気分の中、公演の一覧が送られきた。

日本武道館

遂に夢の聖地のステージに立つ。

震えが止まらなかった。それまで何度もコンサートを見に行ったホールのステージに立つということはこれ以上の経験は無いのではないだろうか。

昭和の音楽番組でいつも流れていた名曲の数々を全国を行脚しながら、大規模なコンサートツアーを経験した。各地では従姉妹や親戚もたくさん来てくれ喜んでくれた。

九州、四国、中国など地方によって公演が連続する場所は、公演後にチャーターされたバスで3人とバンドが一緒に移動した。行ったことの無い町を次々と通過して行く度に夜のネオンが疲れを癒してくれた。

大阪では大阪城ホールというとても大きなホールでのライブだった。
これまでライブハウスで大きな音を出して演奏して喜んでいた訳だが、その大きさは桁が違った。自分の弾く音で足元が揺れる新しい感覚。

大阪から東京へ戻る新幹線を遅らせ、新大阪からローカル線を乗り継いで叔母の家にも何度かお邪魔した。関西出身のこのグループだけに叔母の喜びはひとしおだったようだ。

高校生の頃何度も足を運んだ神奈川県民ホール。正面入り口では無い。関係者入り口に車を停め、首からパスを下げて入場する。鼻が高かった。









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