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ハズレのナポリタン

新年早々に言うことではないのだが、先日喫茶店で食べたナポリタンが信じられないくらい美味しくなかった。いや、変に気を遣ってもあれだ。死ぬほど不味かった。

喫茶店のナポリタンというのは、どこで食べても一定の美味しさが保証されており、その上で店ごとの個性が滲み出る食べ物だと認識していた。だが、その店のナポリタンは、そんな甘っちょろい常識が到底通用しないような代物だったのだ。

運ばれてきたときから違和感はあった。色が微妙に薄く、冷めてべちゃっとしているように見える。どことなく作り物っぽい、食品サンプルというよりは家庭科の教科書の写真を思わせる佇まい。大丈夫か?という思いがよぎったが、冷めても美味しいのがナポリタンだ。まあ気にしすぎだろうとフォークに巻きつけ、一口食べて驚いた。見た目からの見積もりを遥か超えてくる不味さだったのだ。

麺は茹で置きだとしても説明がつかないくらいぐにゃぐにゃで、砂漠に埋めたらオアシスを作れるのではというくらい水分を含んでいた。その影響か味付けも水っぽくぼやけていて、昔モネ展を見に行ったときに見たモネの晩年の作品を思い出した。だがモネの作品は「タイトルに橋と書いてあるから橋なのだろう」くらいのぼんやり具合でも色とかは綺麗だったので、例えとして適切ではない。正しくはぼんやりしている上に美しくも面白くもない絵だ。そんな絵は巡回展ではなかなか見られない。

そして、こんなに水っぽいにも関わらず、どういうわけかしっかり油っぽさもあって、一口ですぐに胸が焼けた。水と油が激しく喧嘩しながら口の中に雪崩れ込んでくる感じだ。ぼんやりと要領を得ないことを言い合いながら。どうでもいいけどここでやらないでほしい。入れたのは自分なのだけど。

一口目のパンチにやられ、なかなか次の一口を食べる踏ん切りがつかずにいた。決断を先延ばしするための逃避として具のウィンナーに口をつけると、萎びたような食感と嫌な油っぽさで、こちらも容赦なく不味かった。もはや逃げ道などないのだ。殺人鬼が暮らす家から命からがら逃げ出して交番に駆け込んだら警察も殺人鬼側の人間だったような絶望である。

その後も「ナポリタンではなくこういう食べ物」というスタンスで臨むなどしてなんとか数口食べ進めたが、どんなアプローチをもってしても「不味いものは不味い」の壁は打ち破れず、誠に不本意ながら半分以上食べ残して店を出た。情けない。SDGsの時代にあるまじき行為だ。事実を上手に切り取れば炎上も可能である。

このナポリタンを美味しいと感じられなかったのは、ひとえに世界の捉え方のバリエーションが乏しい僕の視野の狭さが原因だ。今後僕がさまざまな経験を積んで人としての幅が広がれば、いつかはこの味からある種の「美味しさ」を感じ取れるようになるかもしれない。そのときこそ、僕はこのナポリタンをペロリと完食し、「ご馳走様でした」の一言でも添えて店を出ようと思う。

まあ、そんなことしなくても普通にナポリタンとして美味しくなってくれるのが一番いいのだけど。

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