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なで肩であるが故

僕はなで肩である。

「吾輩は猫である」みたいに言うな、と思った人も思わなかった人もいるだろうが、とにかく僕は(表現として合っているのかは知らないが)筋金入りのなで肩なのだ。

“なで肩あるある”の定番として「トートバッグがうまく引っ掛からず、すぐにずり落ちてくる」というものがある(ちなみに定番ではない“なで肩あるある”は、「肩にイチゴを乗せづらい」)。我々なで肩の人間は生まれながらにして、トートバッグを掛けては落ち、掛けては落ち……というのを、永遠に繰り返す運命なのだ。まるで賽の河原である。なぜだ。我々が何か罪を犯したとでも言うのか。

あまりにもずり落ちるので、生まれる時代が時代だったら、僕がニュートンに先んじて万有引力の存在に気付けていたのではないか、とさえ思う。トートバッグを掛けて微笑む僕のイラストが表紙の伝記が、ライト兄弟や野口英世と共に小学校の図書館に並べられていたかもしれないのだ。「不便なことを悲しむのではなく、その中からすごい発見をしていて偉いなと思いました」みたいなことを書いておけば、読書感想文はバッチリだ。先生と親は大喜びである。

納得いかないのは、こんなにも不便な思いをしている我々なで肩の人間も、ずり落ち知らずの怒り肩の人間も、トートバッグを買う値段は同じだということだ。こんな不平等が許されていいのか。アメリカなら、なで肩原告団がL.L.Beanを相手取って裁判を起こしたっておかしくないと思う。「Love our shoulders!(我々の肩を愛せよ!)」と書かれたプラカードを掲げて行進するような事態にまだなっていないのは、たまたまアメリカに圧倒的に怒り肩が多いからではないだろうか。

もちろん怒り肩の人たちに罪はないのはわかっている。なで肩がそうであるように、好き好んで怒り肩に生まれたわけではないのだから。電車で隣り合った時になんかこちらが縮こまらないといけないのも、別に怒り肩の人が悪いわけではない。怒り肩には怒り肩にしかわからない苦悩があるはずなのだ。「イカリングを食べているとチラチラ見られる」とか。

やはり、大事なのは想像力である。なで肩と怒り肩は、今こそ互いに肩を寄せ合い歩んでいくべきではないだろうか。


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