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股引のネットニュース

股引を穿いて寝ていたら暑くなったので、脱いで掛け布団の上に置いてからまた寝たのだが、朝起きたらどこかに消えてしまっていた。僕が寝ている間に何者かが部屋に侵入して股引を盗んで行ったという可能性は薄い。恐らく部屋の中のどこかにあるはずだと考えて探してみると、股引はベッドと壁の間の隙間に落ちていた。

一人暮らしの部屋はただでさえ掃除が行き届いていない。その中でもベッドと壁の隙間というのは自分の中でももはや無いことになっているような空間で、見て見ぬ振りどころか完全に意識の外にある場所だった。当然掃除がされているはずはなく、埃がたまり放題となっている。そこに股引が落ちた。

最悪である。寝汗と雨天による部屋の湿度でしっとり湿った薄い布が、埃がたまりにたまった空間に入り込んだのだ。その結果どうなるかは小学生にもわかるし、多分賢めのサボテンにもわかるだろう。どう考えても待っている未来は明るくない。

僕は一旦スマホの電源を入れるとネットニュースの一覧に目を落とした。これから確実に訪れる厳しい現実に対峙するには、心の準備が必要だ。そのためには、自分のささやかな不幸など比較にならないような圧倒的な不幸を見て気持ちを落ち着ける必要があった。

俳優、タレント、お笑い芸人、アナウンサー、YouTuber、警察官、JAXA職員……。本人の落ち度のあるなしにかかわらず気の毒な状況にある人が次々に画面に現れた。もし自分がその立場だったらと思うとぞっとする。そうだ、これが現実なのだ。世界はあらゆる不幸にあふれているのである。

僕は壁とベッドの隙間に手を入れた。世の中に存在する無数の不幸の一つと向き合うために。指先でつまんで引き上げた股引は、見事なくらいふわふわの埃で覆われていて、がんばってすごくいいように言えば、満開の桜のようだった。

ネットニュースで見る数々のゴシップや事件のことを、我々は画面を閉じた次の瞬間には忘れてしまっている。だが、当事者たちにとってはそうではない。世間が飽きようと興味を失おうと、彼らは引き続き現実と向き合わねばならないのだ。

ゴミ袋の上で股引の埃を取りながら、僕はそんなことを考えた。股引についた埃は思っているよりずっと取れづらく、少しずつ確実につまみ取っていく必要があった。仮にこの股引落下の件がネットニュースになったとしても、この苦労は伝わらないのだろう。

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