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小中学生のころ学校図書館に対して僕が思っていたこと【司書課程修了、間もなく卒業の現役大学生より】

こんにちは、オホーツク。です。
久しぶりの投稿になってしまいました。書きたいと思うネタはいくらでも出てきていたんですが、結構どれも超大作になる予感がしてですね(自分で言うな)、ついつい後回しになっていました。

さて、今回も超大作の予感です(だから自分で言うな)。でも、黙ってはいられないという感情がここ数日ずっと続いていて、それが面倒くささを上回っているので筆を執ります。

まずは軽く自己紹介

考えてみると僕、noteで多くの方が最初にやっている自己紹介記事を書いていないんですよね。4月から新生活が始まるし、今月で大学生活も終わりになるので、自己紹介記事を書くタイミングとしては持ってこいです。でも、書くならとにかく丁寧に書きたいので、ここでは概要だけにとどめておきます。いずれ自己紹介記事が完成したらここに貼り付けますね!

各地を転々としてきた

清宮・村神様世代の僕。かろうじて20世紀の空気を知っている僕。そんな僕の子どもの頃を形容する言葉は「背が高い」「転校生」の2つで十分です。とにかく各地を転々としてきたのです。転勤族の家庭で育った宿命。どれくらい各地なのか。以下は、上から順に引っ越ししていった場所です。

  • 大阪府豊中市

  • 北海道紋別市

  • 福岡県福岡市

  • 大阪府豊中市

  • 北海道留萌市

  • 北海道札幌市

  • 東京都(大学進学を機に)

  • 2023年4月から宮崎県椎葉村(別記事で触れるから今はツッコまないで)

都市部が多いと思わせておいての唐突な難読地名・留萌。読めますでしょうか、この地名。「ルモイ」と読みます。アイヌ語の「ルルモッペ」という言葉から来ております。熱心な鉄道ファンや数の子オタク(?)、高倉健ファン、気象情報ウォッチャーは知っているかもしれません。我ながらかなりユニークだと思っています。こんな調子であちこち行きましたから、小学校は4校行きました。中学時代には1年に2回体育大会に出たこともあります。そんな稀有な人生を歩んできた私ですが、各地の小学校・中学校を体験してきたことで、学校図書館に対し、子どもながらに感じるところというものがありました。それをここでは記していきたいなと思います。

本/図書館との関係性から見る自己紹介

一応この観点からも話しておきます。僕は読書家とは到底言えないし、本の虫でもありません。でも、幼い頃は母の読み聞かせを聞いて育ちましたし、人並みに読書が好きな少年だったと思います。あと、読解力という意味でいうと、公文式の国語でいろんな文章に触れた経験が大きかったと思います。公共図書館の利用頻度でいうと、たまに行く程度でした。地理的条件などもありますが、豊中時代が一番多かったですね。同級生ともよく会ったりしていました。

このようにごくごく一般的な図書館ユーザーで、平均よりは本を読むかなぐらいの僕でしたが、後述する出来事をきっかけに気が付けば大学では図書館司書課程を履修し、晴れてこの春から図書館で働きます(まあ、一般的な図書館への就職とは違いすぎているので認めてもらえないかもですが)。

ということで、現場の司書さんや職員さんのリアルな声はまだまだ知らない大学生ですが、業界のことはそれなりに理解しているつもりの大学生がお届けする10年以上前の学校図書館デイズ、はじまりでございます。

【注意】
普通自らの人生を振り返る際、小学校・中学校・高校といった区分で分けるのが一般的でしょうが、私は土地ごとに分類しています。以下では、地域ごとに学校図書館での経験を書いていきます。ではどうぞ!

その前に、、、なんでこれ書くんよ?

危ない危ない、すっかり忘れていました。なぜこんなことを今書く気になったのか。「シリーズ 大学生を振り返る」とか「白川郷~北陸を巡る旅で感じたこと」とか「さらば留萌線。」とか、いくらでも書きたいことはあるのにそれらを差し置いてまでなぜこの記事を書くのか。

それは、ズバリ今図書館関係者、もっと言うと学校図書館関係者間で話題になっているらしいトピックがあるからです。そしてそれが気になったから。元ネタはおそらくこちらの記事。

この記事に対しての反響は業界関係者以外からの声も多かったようで、その外野の声に対して関係者が反論するといった感じで、テーマが派生してここ数日は泥仕合の様相を呈しています(個人の意見です←使ってみたかったぜ)。

まあ、そのような意見をのぞき見すると、「たしかに!」と思えるものもあれば、「それはどないやねん!」というものもあるわけでして。で、大抵字数が限られたSNS上で議論し始めると収拾がつかないし、気分が滅入ってしんどいし、傷つけ合いと慰め合いになるし、議論じゃなくなるしでいいことがあまりない。僕も見てて疲れてきた。不毛!

だから、いろいろ僕なりにも思うところがあるわけですが、まずは過去の自分の経験を語ってみようじゃないかという気になりました。大人ではなく、子どもの意見としてね。もちろん、大人の僕が思い起こして書いているので純粋な子どもの意見ではないですけれど、子どもって案外細かいとこまで見てるし敏感やねんでというのを伝えられたらいいなと思っています。学校図書館は何よりもまずはそこに通う生徒・児童のための場所なんですからね。
そして、大人のみんな。子どもの意見を傾聴しようぜ。

紋別時代

はい、ということでようやく始まりましたオホーツク。の学校図書館デイズ。まずは、北海道紋別市。
ちなみに紋別はこんなところです。

幼稚園を経て紋別小学校に入学した僕ですが、ごめんなさいね。紋小の記憶はほとんどないんです。なぜかというと、6月末で福岡市に引っ越したからです。校歌も覚えていません。数年前にネットで調べて聞いても全然懐かしくなかったです。無念。思い出としては運動会、給食のキムチ丼が辛すぎて残したこと、パンのバリエーションがコッペパンか背割りコッペパンか食パンしかなかったこと、紋別空港に担任をはじめ結構見送りに来てくれたこと、くらいです(意外とあった笑)ちなみに、その時担任の先生は『おじさんのかさ』をくれました。

したがって、紋小での学校図書館経験は事実上皆無です。幼稚園時代か小学校入学してからか覚えてないですが、地元の公共図書館には何度か連れて行ってもらいましたね。

福岡時代

やってまいりました福岡!暑さにやられたのか、転校後最初の体育の時間に人生初めての鼻血を出した福岡!ホークス大好きになるきっかけをくれた福岡!みんな大好き福岡!特に説明は不要かと思うので、福岡はリンク貼りませんよ?

僕は姪浜(めいのはま)小学校というマンモス小学校に通っていました。1学年6とか8とかクラスがありましたね。のちに近くに姪浜北小ができたくらいですから。とにかく多かった。それだけ人が多いということは校舎もデカい。北棟と南棟みたいな感じで分かれていたはずです。雨の日は校舎内でひたすら鬼ごっこです(廊下も走りがいがあるんですよね笑)。

ではそのマンモス小学校の学校図書館はどこにあったのか?
なんと…プレハブの別棟でした!歩くだけでギシギシ音が鳴っていた気がします。広さとしては、学校の規模を考えるとそこまで広くなかった印象です。

授業として図書の時間があったのかどうかは記憶が曖昧ですが、それなりに利用していたと思います。『はれときどきぶた』シリーズを手に取ったり、『おさるのジョージ』シリーズも学校で読んでたかな。少なくとも公共図書館では借りた記憶があるんですよね。『ズッコケ三人組』シリーズももう読み始めていたかもしれない。『ミッケ!』なんかも皆で見ていたはずです。

でもやっぱり何を隠そう、一番夢中になったのは学研の『まんがでよくわかるシリーズ』です!当時このシリーズは刊行されたばかり(のはず)で、新刊が入ると争奪戦でした。とにかく片っ端から読んでいた印象があります。大人気でした。それでも新刊がすぐに入るわけでもなく、全体としての数はそこまで多くなく、書架に並んでいたものは一通り読み切っていました。姪小での印象は、やはりこの(通称)ひみつシリーズでしたね。

そういえば、ふと思い返すと母親がバーコード貼りのボランティアに何度か学校へ行っていました。おそらく、図書貸出のコンピュータ化を進めている過渡期だったものと思われます。基本的にはコンピュータ方式での貸出の印象が強く残っていますが…。また、司書の先生みたいな人はまったく記憶に残っていないです。いらっしゃったのかもしれませんが(いるはずなんだけどなぁ)、直接関わることはなかったのでしょうね。不満もなければすごく好きというわけでもなかった図書室、図書館でした。

余談ですが、学校で読み聞かせに接する機会は多かったです。担任の先生も事あるごとに読み聞かせをしてくれましたし、学校敷地内に公民館みたいな場所があり、そこで月に1回程度、昼休みにボランティアの方による読み聞かせがあり、皆で押しかけていました。姪小は昼休みが50分あったので(地域によって全然長さが違う!)、読み聞かせを聞いた後でも遊ぶ時間がたっぷりありました。

さらに余談ですが、2022年3月に福岡旅行したんです、僕。その時姪小のまわりもぐるっと歩いてみたんですが(変質者と間違われるっちゅうねん!)、プレハブまだあったんですよね。まさか変わらずあの空間が図書館だとは思いたくないですが…。真相は如何に。

豊中時代

小学校6年間のうち最も長い3年間を過ごしたのが、大阪府の豊中時代です。中豊島(なかてしま)小学校に通っていました。小3~小5までです。ここでの記憶ははっきりしているものも多いですし、何よりもすごく影響を受けた図書館であり、先生がおられました。

中豊島では、授業として週に1時限「図書」の時間がありました。その時間は原則学校図書館へ向かい、司書(当時の僕には、今で言う学校図書館司書なのか司書教諭なのかなどわからなかったためこの呼び名とする。)の先生が読み聞かせをしてくれたり、各々好きな本を読んだり、返却・貸出の手続きをしたりと、とにかくゆったりとした時間が流れていたのを覚えています。さらに、調べ学習の導入として奥付の説明を受けたり、出典の書き方、「きらきら星」の替え歌でざっくりとNDCの第1次区分表を覚えたりなどしました。この時の経験が結構バカにできなくて、今に活きています。


「きらきら星」替え歌NDCver.

  • 0は総記

  • 1哲学

  • 2は歴史

  • 3社会

  • 4は自然

  • 5工学(技術)

  • 6は産業

  • 7芸術

  • 8は言語

  • 9文学

  • NDCを覚えましょう♪


お見事ですよね。誰が考え出したのでしょう?気になります。
※小学生からNDCに触れることについては、自立した調べ学習・円滑な調べ学習のためには効果的だと個人的に思っています。知っていて損はないぐらいの感覚です。ただ、馬鹿みたいにNDCを覚えさせる必要性はどこにもないと思いますし、そんなもの知らなくても楽しめる環境作り(棚や展示作り)をした方がよいのかなと思ったりもします。これは学校図書館がどうあるべきか(どう変わるべきか)の根本的な話にもなってくるので、一概には言えないですね。OPACがある学校図書館はまだ少ないでしょうし(てか、あるとこあるんですかね?)。

そんな図書館英才教育(?)を実施していた中豊島は、僕が転校してきてすぐはカードを使った貸出方式でした。おそらくニューアーク方式、とりわけツーカード方式だったのではないかと思われます。鮮やかな黄緑色のカードが脳裏に浮かんできます。それでも、少し経った頃にはコンピュータ方式でバーコードを読み取っていたはずです。やはりこの頃はどこでも過渡期だったんでしょうね。午後になると日差しが室内全体に入り込み、非常に明るい空間でした。入りにくい雰囲気なども一切なくて、職員室以外に唯一の冷房が備え付けられていた教室だったこともあり、真夏の昼休みや雨の日などは激込みでした。全体的にゆとりのある空間だったと記憶しています。

学校図書館を切り盛りしていたのは基本1人の司書の先生です。3年間で2人の司書の先生にお世話になったのですが、とりわけ最初の2年お世話になったE先生は、学校のみんなから信頼され愛されていた先生でした。小4の時にクラスで新聞係を担当し、企画で好きな教科をクラスメイト全員にインタビューした結果、他を圧倒する形で「図書」が栄えある1位に選ばれました。誰もが納得の結果でしたし、学校中の総意だったのではと思ったほどです。僕自身いろんなお話をしたし、とてもお世話になった先生でした。

そのE先生とのやり取りを思い返すと中豊島のレベルの高さ、そして豊中市の充実度が浮かび上がってきます。
転校当初、まず驚いたのが福岡でも読んでいた学研『マンガでよくわかるシリーズ』の圧倒的な量。昔のバージョンも含めるととんでもない数が揃っていました。中豊島でも多くのひみつシリーズを読みふけったものです。

ちなみに今のシリーズはこんな感じです。なんかすごくニッチなテーマもあって進化してますね…。

その後僕がずっとハマっていたのは、『ズッコケ三人組シリーズ』と『怪盗ルパン』シリーズです。前者は全50巻を制覇しました。それでは飽き足らず、同じ那須正幹さんが書いた『殺人区域』を近隣の公共図書館から取り寄せてもらったり、大人向けに刊行され始めていた『ズッコケ中年三人組』シリーズも取り寄せてもらったりしていました。それをスムーズにしてもらえるのって当たり前ではなかったんですよね。のちに知りました。『怪盗ルパンシリーズ』はほぼ全巻読破したのですが、あと1巻くらい残したところで留萌に転校する形になってしまいました。その時はまだ悲劇が待っていようとは考えすらしなかったですけれど。

『星新一ショートショート』シリーズもかなり読みましたし、E先生にオススメしてもらった本としては『大どろぼうホッツェンプロッツ』シリーズ、『O・ヘンリー』シリーズなんかもありました。これだ!とはっきりとは思い出せませんが、『青い鳥文庫』も結構手を伸ばしていたと思います。もちろん、『ミッケ!』や『ギネスブック』、『空想科学読本』シリーズを皆で奪い合うように読んだりもしました。

他のクラスメイトを思い返すと、男子からの圧倒的な人気はやはり『空想科学読本』だった印象です。女子は何読んでたんですかね。『若おかみは小学生!』シリーズとかですかね。僕でも名前知ってるわけですし。皆、それぞれ思い思いに好きな本を読んでいたと思います。

中豊島で本の虫として名を馳せていた同級生男子が2人います。R君とM君です。彼らは、僕がたまに近隣の公共図書館に行ったときに高確率で出くわしました。それぐらい本が好き。M君に至っては、5分休憩中に図書館に行ってしまって先生に叱られる日々でした。彼の本への愛はすごかった。E先生はそんなM君に注意はするも、きつく叱ってはいなかったと思います。M君のような、なかなか学校になじめない生徒たちの居場所になっていたのは間違いなかったですね。
嫌なことがったらとりあえず図書室へ。E先生に話を聞いてもらおう。僕もそう考えたことがありました。

5年生になって、E先生は去ってしまいましたが、後任のM先生も素敵な先生でした。ただ、5年生になると他の授業の調整弁に「図書」の時間が使われるようになり、皆不満タラタラでしたね。あれは良くなかった。貸し借りさえすればいいってもんじゃないのに、貴重な時間を奪われたことは他の面にも悪影響を及ぼしたと今でも思っています。

最後に、ベルマークのお話。中豊島ではベルマークの収集がとても丁寧に徹底されており、その資金で毎月新刊を購入していました。図書館だよりにそのことが書かれていた記憶があります。ベルマーク回収の封筒はしょっちゅう見ていた印象です。PTAのお母さん方の地道な仕分け作業の賜物でもあるのでしょうが、ベルマークで本を買う流れが確実に定着していました。ちりも積もればってやつで結構まとまった額になっていたんでしょうね。今はどうなっているのでしょうか。

留萌時代(小学校篇)

充実の豊中時代を経て、2011年4月から留萌に引っ越しました。まだ東日本大震災の混乱が収まりきらぬうちの引っ越しで、とても鮮明に覚えています。当時、留萌小学校6年生は40人ちょっと。僕ともう一人転入生がいたおかげで2クラス体制にできたと伺いました。

海沿いの田舎町(https://www.e-rumoi.jp/)で、

僕が来る直前に唯一の本屋さんがつぶれてしまったようでした。本屋さんがない町になっていたのです。
※ただ、のちに三省堂書店が異例の出店を果たし今なお継続して営業を続けている。以下は開店10周年時に僕が取材して執筆した記事。


そうした環境の小学校図書室は惨憺たるものでした。まず単純に暗い。端の教室で暗い。初めて図書室に行ったのはいつだったでしょうか。少なくとも「図書」の授業時間はありませんでした。かなり後になってから休み時間に行ったのかもしれません。そもそも、毎日の昼休みに開館などしていなかったはずです。いつやっていたのかもよく知りません。

その初めて行った時に受けた衝撃が大きすぎて、留小では一度も本は借りなかったはずです。図書室にもたしか一度しか行きませんでした。何が衝撃って、あの大好きだったルパンシリーズが見たこともない古い時代のもので、ハードカバーでごっつくて、おまけにシリーズ全巻揃っていないというありさまでした。そのくせ、同じタイトルが複数冊あっていっちょ前に複本があったりして。なんやねんこれと本当に引きました。ルパンの次はホームズだ!と息巻いていた気持ちもしぼみ、嘆くしかありませんでした。『ギネスブック』も最新版がないだけならまだしも、古い年のものが飛び飛びである状況。こんな空間で過ごせるかよと強く思ったものです。他のクラスメイトはそれでそこそこ楽しんでいたみたいですが、僕はそうそうに見切りをつけました。ですから司書の先生(いなかった気がする)やボランティアさんのことなど全く知らずに終わりました。

この時たまたまそばにいた担任の先生が、僕の嘆きを職員室で同僚の先生に話したようで、その先生から、古いものの全巻すべてそろったホームズシリーズを譲り受けたのは良い思い出です。結局ルパン派に落ち着いてあまりホームズは読まなかったんですけどね…。

この時の経験が僕の原体験として強く刻まれています。これが司書課程履修の動機になったと言っても過言ではありません。

留萌時代(中学校篇)

入学した中学校は留萌市立港南中学校。一般的な傾向としてもそうですが、中学入学後は野球部に入部したこともあり、読書量はかなり減りました。野球自体は小6から始めたので、その意味では小6時代も読書量が減っていたかもしれません。でも、その図書室の惨状と自分の時間の使い方の変更はあまり関係ありません。そもそも豊中の頃だって放課後に行っていたわけではないですしね。

では、港南の図書室はどうだったのか。小学校ほどひどくはなかったですが、すごく惹かれる何かがあるというわけではなくオーソドックスな雰囲気の図書室でした。やや奥まった空間に古い全集とかがあって、それは逆に良さになっている気もしました。港南時代も図書室で借りることはしなかったと思います。やはり、野球部での活動が圧倒的に忙しかったですね。
読書時間としては朝の10分間の読書。この時間は家から自分の本を持っていっていたと思います。

総合学習などでも図書室を活用した印象はありません。どちらかというと、コンピュータールームを使うことが多かったように思います。あとは、その手の調べ学習も家で調べてやってくることが多かったかな。いずれにせよ、図書室を活用することはほとんどありませんでした。したがって、司書の先生がいたのかどうかなども不明です。会ったことはないですけれど。

当時の印象では調べ学習に耐えうる資料などが十分にあったとは思えませんが、今はどうなっているのか気になるところです。

留萌時代には小中を通して、市立図書館には定期的に足をのばしていました。なかなか遠い場所でしたが、トレーニングだと思って歩いて行ったりしていました。野球をしていたこともあり、往年の名選手の伝記やマンガを読んだりすることが多かったですね。市立図書館はごく一般的な図書館という感じでした。
そのうち、三省堂書店もオープンし、週末家族で買い物に来た際には立ち寄って、ちょこっとずつ本を購入したりしていました。買うことが増えたのはこの頃からかもしれません。

札幌時代(中学校篇、高校篇)

中学時代

残念ながらあまり語ることが多くないので、中学校と高校一緒にしちゃいました。高校はおまけです。
留萌から引っ越してきたのは中2の夏休み。中2の2学期から琴似中学校に転入しました。琴似中学校もマンモス中学校で1学年7クラス。初めての始業式の時なんて、壇上の校長先生に対してのお辞儀をする様子がまるでムスリムの礼拝でした。

そんな琴似中学校の学校図書館もやはり部活(転校を機に陸上部へ)が忙しかったこともあり、ほとんど利用せず。ただ、皮肉にも部活のミーティング場所や着替え場所が高確率で図書室でした。なんでだったんでしょう。
そのスキマ時間に棚を眺めることはありました。雰囲気は明るくてきれいな感じでしたが、積極的な利用はしませんでしたね。同じ陸上部の思春期真っただ中の男子が、林真理子さんの小説で何やら興奮できる文言を見つけたようでみんなでキャーキャー言ってたぐらいの思い出しかないです(笑)

中学時代は総じて学校図書館とは距離のある生活を送っていました。思うに、図書委員の権限がより強くなるのが中学校からだと勝手に思っているのですが、そのあたりはどうなんでしょう?授業に活用できる図書館という観点で言えば、僕が見てきたのは活用できるのには程遠いあり様でした。

高校時代

高校は私立の高校でした。ここでも3年間陸上部に所属。中学時代以上に忙しくなります。高校の図書館自体はテスト前や、部活のない日にちょろっと行っていました。図書館としては結構よかったと思っています。最近のものから古いものまでバランスがよかったですし、新聞なんかもありました。僕は日本史の勉強のために石ノ森章太郎先生がお描きになった『マンガ 日本の歴史』を抜粋して読んでいました。あとは小説を何冊か借りたりしていました。もっと図書館に入り浸る高校生活も送りたかったですが、単純に時間をつくれませんでしたね。

1年時に現代社会の授業において、調べ学習という形でクラス皆で利用したことがありました。その時が初めての図書館訪問という人も結構いたようで案外揃ってるじゃん的な声が時折聞こえてきていました。蔵書は結構立派だったと思います。もっとうまく授業と連携すればいいのにと思っていました。もったいないですよね。私の2つ下の世代から、教室では電子黒板が導入され、1人1台端末を持っていたはずですが、そういったところに絡めて行けたのかはわかりません。司書の先生の顔は覚えていましたが、図書委員でもなかったので、お話をするような関係性にはなりませんでした。学校図書館の役割とは何なのかを学校側が位置づけなおす必要がありそうです。

最後に

ダラダラ書きましたねぇ。気が付けば1万字もすぐ目の前。卒論はあんなに進まなかったのにね、ホントに。ここまでお読みいただいた方、お仕事大丈夫ですか?ありがとうございます。

子どもの意見としてこの記事を書く、とわりと前半の方で宣言しました。いかがだったでしょうか。いろいろと思い出しながら筆を進めたつもりです。大半はエッセイですが、部分的には学校図書館の問題点なども含めているつもりです。ここに書いたことはすべて過去の話ですから、今はもう変わっていることを切に願っているばかりです。でも、それが変わりにくいのが図書館だったりもするんですよね。

僕の一番のメッセージは豊中から留萌にかけての経験談です。ここを読んでもらえれば、小学生に何が必要か、学校図書館に何ができるのかが見えてくるのではないでしょうか。除籍は当たり前です。図書購入予算が除雪費で消えるとまことしやかに言われちゃう北海道ですが、予算の確保は死守すべきもの。手入れをしない学校図書館ほどひどい場所はない。子どもは敏感です。

今回の件で明らかになったのは、図書館界隈の人と外野における、(学校)図書館に対する認識の差と温度差。世の中数多の職業があるのだから、相手の仕事を知らないのは当然のことといってもよい。だから、界隈の人はこんなことも知らねえのかと言いたくなるのをグッと我慢して、当然知られてないですよねという態度で事に当たるべきだ。厄介なのは、教育関連だから皆が口を出してくること。しょうがない。スルーすべきはスルーだ。

あとは今一度、図書館とは何か、サービスとして何を提供すべきか、各館種における役割は何か、その地域・その学校における特殊な事情は何か、何が課題でどう変えるべきか、どう伝えるか。このあたりを考える契機とすればいいのではないか。

少なくとも僕は僕なりに模索し、考えたい。
本との付き合い方も、本以外に提供できるものについても。

知が身近な司書たるもの、立ち止まらないで考えるんだ。

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