たのしんだもん勝ち

「このままだと心臓が止まるかもしれません」
18歳になってすぐ母が医者に言われた言葉だ。

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平成10年生まれ。現在23歳。
世の中から見たらまだまだ若すぎる年齢だろう。
でも、生まれてきてからたったの23年間のなかで
意外と苦しいことがたくさんあった。
この小説にも満たない拙い文章の羅列は、
私はこんなに苦しい思いをしてきたんです。
みんなより辛いんです。ということを
伝えたいわけではなく、
私はこんなに頑張ってるんです。
認めてください。
ってことを伝えたいわけでもない。
ただ、自分はこういう経験をして、
こんな進路を選んで、
ここで毎日を過ごしているよ。
こんな人もいるからきっとみんなも大丈夫だよ。
と、これを読んでくれた
だれかの心の小さな隙間に
刺さればいいなと思っている。

さてさて、ここからいきなり内容をドーンっと、
話し始めるのもなんだかな〜と思ったので、
話す段階を軽く決めてみようと思います。

1.小学生時代
2.中学生時代
3.高校生時代
4.専門学生時代
5.現在
6.これから

大雑把にこんな感じでいきたいかな。
この世に生まれてから23年だからさ、
こんだけしか話す事ないんだよね。
でも、なんとなく、
話したら面白い人生かなと思い。

んじゃ、のんびりと話し始めていきますか〜。
1.小学生時代

私は祖父、祖母、いとこを含め、
待望の長女としてこの世に誕生しました。
それはそれは、大事に大切に育ててもらい、
めちゃくちゃ可愛い洋服や、
兄弟の中で唯一作ってもらった
名前入りの湯呑み、
その他にもきっとたくさん愛された印のものが
あると思います。

大事に大切に育てられ、甘やかしてもらい
体型はまんまるになりつつ。
このままじゃまずいかなと思った祖父が
地元の野球チームに連れていきました。

女の子で野球?大丈夫なの?やめとけば?
という反対の声もきっとあったと思いますが、
当の本人、私はボールが大好きな子だったので
割とやる気でノリノリでした。
なにより、当時、クラスの男子のほとんどが
野球チームに所属しており、楽しそうだったから
入団することを決意しました。

野球チームに入団してからは、
自分の運動神経の悪さに驚くばかりです。
足は遅い。反射神経は鈍い。
練習についていけない。
ただボールを投げるのは好きだったし、
打つのも好きでした。だから辞めるという感情は
全く考えもしなかったし、浮かばなかったです。

小学四年生から、六年生まで土日は
毎日練習に参加し続けたけど、
試合に出れた経験はごくわずかだと思います。
正直、試合に出た事はあまり覚えていません。
でも生まれて初めて貰った背番号『24』だけは
すごく鮮明に覚えています。
祖父が凄く凄く喜んでくれたからです。

ただひとつだけ。
今でも鮮明に覚えているシーンがあります。
練習試合だったのか、大会だったのかは
覚えていないので、わかりません。
私はライトを守っていました。
1死ランナー三塁。
相手のバッターが打った打球は
私の方を目掛けて弧を描いて飛んできました。
落下地点に入り、キャッチし、その瞬間。
相手の三塁ランナーはホームに全力でダッシュ。
そう、タッチアップというルールです。
俊敏には動けないけど、地肩の強さだけには
自信があった私はキャッチャーを目掛けて力強く
腕を振り抜きました。
次の瞬間、聞こえた音は「ナイスライト!!」
という仲間の喜ぶ声。監督から誉められる言葉。
こんなに嬉しい瞬間があるんだ!
と実感しました。

....
ここまで、自分の事しか話していません。
野球って凄くお金がかかるスポーツです。
身体があっても道具が無ければ
できないスポーツです。
昔のことすぎて記憶にほぼありませんが、
私が小学1年か2年の頃、離婚しました。
グローブ、バット、ユニフォーム。
バック、スパイク、その他諸々。
嫌な顔一つせず、全て買ってくれて、
土日のお弁当は必ず手作りのものでした。
自営業の母は応援にはいけないから
せめて、お弁当だけでも。
という気持ちだったのかもしれないけど、
今思えば、とてもありがたい事です。
本当に母には感謝してもしきれないです。


....
とりあえずここまで。。
つぎは 2.中学生時代 から書きますか。
もしここまで読んでくださった方がいるなら
凄く感謝します。ありがとうございました。

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