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小説【せとでん通勤者~修行する女~】

 これはもう、ほとんど修行? いや、先月の健康診断で貧血と分かってからは、修行はもはや苦行となっている。
 そう自分に言い聞かせないと、AM8時48分名鉄瀬戸線「東大手」駅のこの階段を最後まで上がっていけない。

  満員の通勤電車の人いきれからようやく解放され、ほっとする間もなく、次に待ちうけるのは地上までの長い階段。清水橋のお堀の下に「せとでん」が深く潜っていく地の底の湿ったホーム。エスカレーターもエレベーターもない。 
 何人も平等に、自力で地上に這い上がるしかないのだ。顔を上げると、狭く薄暗い階段の先の地上の出口が、トンネルのそれのように小さく見える。

 私は馬鹿らしくて数えたことはないけれど、嘘か誠か、誰かが108段あると言っていた。え? それって煩悩の数と同じじゃん。じゃ、やっぱりこれって修行なのね。

  まわりを見ると、元気なのは高校生だけで、せとでん通勤者はどの人も、皆一様に押し黙って上っていく。私も一段一段を、修行修行とお題目を唱えながら、ひたすら足を持ち上げる。気まぐれに数えてみると、あれ? お題目の数、85しかないじゃない。なんだか肩すかしをくらった感じだ。 

 そうして、やっと地上にたどり着く。貧血による立ちくらみと動悸で、その場にしゃがんで休みたいが、そうもいかない。後ろからくる修行者たちに、背中を押されてイヤでも歩き出さないといけない。
 「おはようございます」やっと職場にたどり着いたものの、私はすでに息も切れ切れだった。

  「あんたが責任取るんだね」

 ああ、まただ。この人は自分に都合が悪くなると、上司にあるまじき言葉を吐く。

  私は、とある省庁の外郭団体で事務員をしている。
 職員は、天下りの事務局長、私ともうひとりのおばちゃん事務員の三人。執務室などなく、デスクはお役所の片隅に間借りしているので、民間の私たちを除くとまわりは国家公務員ばかりという図式だ。 

 この直属の上司にあたる事務局長という人が、正直なところ油断ならない。私の憂いの元凶なのである。
 彼の顔が向いている先は、いまだに降りてきた天の方。今はもう、あんた税金でご飯食べてるんじゃないんだからさと、私は事あるごとに胸の内で毒づく。

  それに、顔を洗ってこないのか、いつも目やにが付いていて不潔ったらないのだ。煙草の臭いが染み付いた、垢じみたスーツから漂う老醜が耐えられない。いやだいやだと思っているので袈裟まで憎い。

 とにかく、いつまでも役人面して威張り散らしているのに、責任は一切取らない。いや、責任を取らないのはこの御人だけじゃなく役人本来の気質だから、そこは諦めが肝心なのだけれど、要するに彼の人は小ずるいことこの上ないのだ。

  単細胞な私は、何かという子どもっぽい正義感をふりかざして、この天下り事務局長と衝突してしまうのだった。その時の私は修行者ではなくて、さながら身の程知らずなジャンヌダルクといった役どころ。 

 いや、かっこよすぎる。本当はみじめなピエロなのだ。頭にきて逆らって、当然玉砕木端微塵。仕返しのパワハラに泣いて過呼吸症候群。 

「あんたが息まいたって、世の中何にも変わりゃしないわよ。あんなしょうもないおっさんのせいで、メンタル崩壊なんて馬鹿げてる。エネルギー使うだけ損!」 

 同僚に呆れられ、それもそうだと自分に言い聞かす。長いものには巻かれろ。職を失っては元も子もない。

 このご時世、アラフィフのおばさんが、冷暖房完備の職場でもって仕事ができるんだもんね。子どもたちの教育費にも、たくさんお金が要るもんね。いい大学に入れて、できることなら人生勝ち組のお得な公務員になってもらいたいもんね。 

 やっぱりおとなしく修行者に戻ろう。とりあえず一日一日をつつがなく過ごさなければ。
 私はそう自分に言い聞かせ、東大手の階段を朝に夕に踏みしめる。

  
(注)実在する東大手駅には、今現在はエレベーターが設置されています。

 

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