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小説 【誰かが誰かのS】②

 私は、つーちゃんの前にも、男と同棲をしていたことがある。
久志と出会ったのは、保育園の夏祭りの夜だった。

 彼が担当のクラスの園児、裕樹の父親だと、そのとき初めて認識したのだった。なぜなら、裕樹の祖母が朝夕の送迎をしていたからだ。久志親子は、さんざめく園庭の片隅で盆踊りの輪を遠巻きにし、ぼんやりと突っ立っていた。

「裕樹くんのお父さんですか。担任の高橋です。一緒に踊りませんか?」

「あ、どうも。れい子先生には、裕樹がいつもお世話になってます。自分、父親失格なんで、どうしていいかわからなくて……、すみません」
 小さな声で、久志はぎこちなく頭を下げた。

 彼はシングルファザーだった。大学卒業と同時に結婚しまもなくして親となったものの、その子が二歳になるかならないかで離婚していた。久志の両親が、息子の選んだ女を、嫁として絶対に認めなかったらしい。

 私は、父親としてどうしていいのかわからず、戸惑っているようななんとも覚束ない彼に同情した。
 いや、初めはただの同情だった。それがなんとなく、特別な関係になってしまっていた。我ながら情けないと思うが、つーちゃんといい久志といい、どうやら私は一見して頼りなげな男に惹かれてしまう質らしい。

 久志の実家は手広く呉服屋を営んでいて、彼はそこで専務をしていたが、実のところ専務とは名ばかりで、家業の実権は父親がほとんど握っていた。久志父子の生活は、経済面も子供の養育も、まるごと彼の両親が抱え込んでいた。
 幼児を実母から取り上げた久志の母親は、息子と孫を溺愛していた。ぼっちゃん専務の久志は、いい年をして小遣いを貰い、面倒な裕樹の子育ては、全て自分の母親任せにしていたのだった。

 彼は自由な時間とお金を持て余し、日々男友達と遊んだりギャンブルに興じたりしていた。そしてそれらに飽きると、彼は私の元へやってきた。自分の都合のいい時、まるで夫気取りで数日居座ったあと、仕事を口実についと実家へと帰っていく。

 久志との日々でいったいなにが悲惨だったかというと、彼は気分屋で嫉妬深かったことだった。一から十まで、私を自分の思いどおりにしたがった。気に入らないことがあると、彼は癇癪を起こした。

 結局私は、久志とのサディスティックな生活を七年近く続けていたのだった。

 久志と付き合っている頃、私は彼が選んだ洋服しか着ることが出来なかった。洋服を買う時は、必ず彼が一緒についてきて、私の選んだ洋服に一々ケチをつけた。

「お前にはコレとコレ」

久志は、私の顔の下に、ショップのハンガーに掛った洋服を、あれこれあてがっては悦に入っていた。
 初めは、それが嬉しくて仕方なかった。こんなに愛されてるの、彼には私しかいないのよと、アケミに自慢したほどだ。オンリーワン。彼は私にだけ興味を持ってくれている。私は久志の思いどおりの女になる。

 ある時、ひとりで出掛けたデパートの化粧品売り場で美容部員に捉まり、完璧に女優メイクされた顔で帰宅したことがあった。すると久志は、私の顔を見るなり即座に洗面所へ引っ張っていき、頭から水を被せたのだ。


「お前さ。猿みたいなその顔、いったい誰に見せるんだよ。化粧なんてすんじゃないよ」

 私が、ごめんなさいと何度謝っても、彼は気が治まるまで冷水を浴びせ続けた。
 おかげで私は、久志と付き合っている間、口紅一本も買うことなく過ごしていた。つまり、久志の好む女でいることが、ふたりの間に波風を立てない方法だったからだ。

「ねえ、裕樹くんも連れておいでよ。三人で一緒に食事でもしない?」

 いつだったか、子どもそっちのけで、あるまじき自堕落な関係を結んでいるのが後ろめたくて、そう切り出したことがあった。

「いいんだよ。あいつは、俺がいなくてもちゃんとすくすく育ってるよ。裕樹はお袋の持ち物だからさ」
 予想どおりの言葉が返ってきた。

「でも、おばあちゃん任せじゃ可哀想じゃないの。やっぱりパパと一緒が、一番いいんじゃない?」

「ふん! もっともらしいこと言っちゃって、ちゃんちゃら可笑しいよ。あいつがここにいたら、お前だって鬱陶しいんじゃないのか?」
 なあそうだろ、と見ていたテレビ画面から目を離して見据えてきた。射すくめられ何も言い返せず目を伏せた。

 すると久志はにじり寄ってきて、

「お前さぁ、保育士やってるくせに、子ども好きじゃないだろ? 俺にはわかるんだよ」とせせら笑い、いきなり私を組み敷いた。

 見透かされ、そのうえ馬鹿にされて、そんな状況で抱かれるのは絶対に嫌だった。やめてと抵抗したが、私が抗えば抗うほど久志はかえってそれを面白がり、腕の力をなおも強めた。
 彼はそのまま、有無を言わせない暴力的なセックスに私を従わせた。久志のサディスティックな性癖の前に、私の抵抗など却って火を煽る風のようなものだった。

「あいつ、サイテーのDV野郎だよ。あんなのといつまで一緒にいるつもり?」
 アケミは、私の二の腕の小豆色の痣を見て顔をしかめた。
「お風呂入ってる間に、メールチェックされたって? ちょっとそれ、犯罪じゃない!」
 興奮したアケミの小鼻が膨らんだ。

 恋人のメールを盗み見するのが犯罪かどうかはわからないけれど、それぐらいは彼の常識の範囲内、アケミには言えなかったが、ケータイそのものをバスタブに沈められたこともある。

 そうやって久志は私の交友関係をも束縛したのだった。シンクの洗い桶に浸った来客用のコーヒーカップを目にし、自分がいない間に誰が来たのかとしつこく聞いたこともある。

「アケミが遊びに来たのよ」

「ふうん、アケミ先生ね。あのセンセイは目付きが悪くて、俺は嫌いだね。品が悪いし、ずうずうしいから付き合わない方がいい」

 親友を貶されて、私はさすがにムッとした。
「アケミは昔からの友達よ。何がいけないの?」

「俺がイヤだって言ってんの。他の理由なんて必要ない」

「私にだって付き合いってものがあるのよ」
 
久志は、唇の端を歪めた。
「お前の友達なんて、信用できないヤツばかりだっての。でも、そんなに友達が欲しいなら、俺の連れの彼女やカミさんと付き合ったらいいさ」
 そういって、本当に自分の友達夫婦に私を引き合わせたりした。そんな場面では、口数を控えて楚々としていなければならなかった。

 また、私だけが休暇を取った時など、日に何度もメールや電話があった。それも電話はケータイにではなく、わざわざ固定電話にかけてきた。その固定電話は、私を見張るために久志がアパートにわざわざ引いたものだ。

――れい子、今何してる? 
――出掛ける時は前もって連絡しろよ。
――さっき、どうして電話に出なかったんだよ。どこかへ行ってた? 用事もないのに、ふらふらと出歩いてんじゃないよ。

「ねえ、あなたは、私を信用してないの?」

 私は、何度か久志に抗議した。すると、彼はとたんにキレて不機嫌になるのだった。私がうっかり対処を誤ると、怒りにまかせて暴れ出す。そうなってしまうと、久志の怒りが治まるまで、私がなだめようと泣き喚こうと、もうどうしようも仕方がないのだった。

 小突かれて、蹴られて、髪を引っ張られて……、ついに私は抗う気も失せて、床に蹲る。諦めと一緒に、口の中に血の味が広がっていく。きっと明日は、目の下に青痣が出来ているだろう。園長先生に問い質されたら、なんて言いわけしよう。またアケミが怒るだろうな。

 そんなことを思いながら、私は汚い物を擦り付けられたボロ雑巾のようになって、冷たく固い床に横たわっていた。

 ところが、いよいよ私がぐったりとしてしまうと、久志は急にしゅんとなる。自分が打ちのめした張本人なのに、あげくに動かなくなった私を見て、彼も私と同じように打ちひしがれるのだった。彼は私を思いのたけさんざん虐めたあと、泣いて詫びを入れるのだ。

「ごめんよ、れい子。れい子を誰かに盗られちゃうんじゃないかって心配なんだよ。俺はれい子じゃなきゃダメなんだ。ごめんよ、もうこんなこと絶対しないから、ごめんよ」

 彼は、自分が殴って出来た血の滲んだ傷あとを、犬が舐めるようにして丁寧に拭いた。そして、泣いた。決まってそのあと、深く反省した久志との、穏やかな日々が訪れる。それは束の間、次の嵐が来るまでのほんの数日に過ぎなかったけれど。

 私はその頃、自分だけがこの人の理解者だと思っていた。そうあるべきだと、言い聞かせてもいた。というか、そう思わないと自分の存在価値がないからだった。DV男と一緒にいる自分を、自ら見捨てることができなかった。

「れい子、あんたはあいつの所属物なの? 奴隷なの? あんなのと一緒にいたって、しあわせになんて絶対になれない」

 アケミの言うとおりだった。自分でも、こんな恋愛なんとかしなくちゃと思ったけれど、久志との暮らしの中で、私は金縛りにあったみたいに身動きが取れなくなっていたのだった。

                              ③に続く

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