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小説【ブレインフォグの明日】④

 ATMの挿入口から吐き出された通帳を開く。
 残高五十四万三千四百五十二円。ヤバい。失業保険とお見舞金でなんとか食い繋いできたが、ちびちびと引き出すうちに、貯金もかなり減ってしまった。
 
 待ったなしで支払わなければならないのは家賃だ。コロナを患ったためか、医者通いが以前に比べて多くて医療費も思いのほか嵩む。当然、節約に勤しむ。とりあえず水道光熱費の類は無駄をなくすこと。携帯電話は格安スマホに替えた。食品は夕方七時頃スーパーに行って、割引シールの張られた物を買う。
  
 盲点だったのは、国民年金、国民健康保険の保険料と、前年の所得にかかる住民税だ。うそでしょと天を仰ぐほど高い。こんなに貧乏なのにこんなに持っていかれるなんて、これら税金の類でマジで殺されるかもしれない。

 やっぱり、背に腹は代えられない。まずは日銭を稼がなくては。なんとしてでも事務系の仕事で正社員にと考えていたが、このコロナ禍もあってハードルは思ったよりも高い。いずみだって結局契約社員のままで、十年以上あの会社に勤めている。
 社員登用制度なんて絵に描いた餅だ。美那の知る限り、今日を暮らすので精一杯な人間ばかり、余裕のある人なんて周りに誰もいない。株価がバブル期以上に上がっていると、スマホのネットニュースで見たが、景気が良いなんて、いったいどこの世界の話だろう。一日を生きることがこんなに大変なのに。

 駅に置いてある求人情報のフリーペーパーには、コンビニ、工場のライン、警備、介護、スーパー、清掃などなど、それなりに仕事はある。特に目に付くのが介護の仕事だ。世の中、老人だらけだから、ある意味引く手数多なのだろう。

『介護スタッフ大募集! スタートは皆初心者! 安心の資格取得支援制度!』会社負担で研修も受けられる。
 あ、これ、いいかも。介護福祉士の資格を取れば、いずれ正社員にもなれると書いてある。『キツイ、汚い、給料が安いの3Kはもう古い。感謝、感激、感動のココロの新3K!』色文字が躍っている。

 しかし、自分にできるのだろうか、お年寄りに優しくできるだろうか。いや、そんなこと言っている場合じゃない。体調も味覚嗅覚を除いてはまあまあだしと自分に言い聞かす。というか、振り向いてみたら、あとは崖から転がり落ちるだけになっていた。

 玄関チャイムがなった。ドアスコープを覗くと、上下に間延びした篤史の顔があった。

「ねえちゃん、いる? 俺、篤史」
 居留守を使おうかと思ったが、部屋のテレビの音が大きくて中にいるのはバレバレだ。美那は仕方なくドアチェーンを外した。

「ねえちゃん、久しぶり。あれ、痩せた? やっぱコロナのせい?」
 黒いマスクを付けた篤史の顔が、ドアの隙間から突き出された。

「あんたの顔見たらコロナがぶり返す」
「ひでえな。俺、心配してやってきたんだぜ」
 ふん、どうだか。

「何の用? 今、失業中だからお金だったらないわよ」
「ちげーよ。実は報告があってさ」
「悪い予感しかしないんだけど」

 篤史は弾けるように笑った。ピアスがまた増えていて、マスクの紐が引っかからないか気になった。それに、なぜか日焼けしている。

「信用ねえな。ま、仕方ないけど。俺さ、この度めでたく結婚しました。そのご報告」
「は? ケッコン? あんたが? マジ?」
「いやマジで。この近くに住むことになってさ、今日はその、えっとご近所挨拶?」
「あきれた。プータローのあんたと一緒になるって、いったいどんな勇者なのよ」
「嫁? ヴォーカルのマーシー」

 ああ、あの娘。一度だけライブのチケットを無理やり買わされて行ったときに見たことがある。金髪頭を激しく上下に振って、訳の分からない唄を金切声で歌っていたあの娘が篤史の嫁。ま、ある意味お似合いじゃん。

「で、一応バンドは解散。ほら、コロナでなんも出来なくなっちゃってさ、もういい年だし潮時かなって、足を洗ったってわけ。でもって、ねえちゃんの仕送り止まったらオフクロの手のひら返しがひでえのよ、やいのやいのとうるさくてさ」
「で、逃げ出して彼女の家に転がり込んだ」
「ピンポーン!」
「ばか! 最低!」
 篤史はにんまりと笑った。が、すぐ真顔に戻った。

「俺、ちゃんと仕事してるぜ」
「あんたに何が出来るのよ」
「マーシーの親父さん建築屋で、そこで大工見習やってる。キツイけどまあまあかな」
 へえ、それで日焼けしてんだ。

「このご時世、仕事があるだけマシなんかなと思ってさ。大学出て正社員だった奴らもクビになったり、ウツ病んだりしてるし」
「うん、確かに厳しい」

「ねえちゃん……、潤って覚えてる?」
「ジュンって、あんたの友だちの潤?」
「そ、潤。あいつさ死んじゃったんだ。東京のアパートで、自分で、ね。見つかったの、三週間経ってからだって」
 そんな……。

「ま、そんなこともあって、ねえちゃん、アパートでひとりぼっちで死んでねえかなって思ってさ。ハハッ! あ、はいこれ、ご近所挨拶ね」
 そう言うと、エコバックから包装紙に包まれた箱を取り出した。
「嫁が持って行けって。引っ越しの挨拶は洗剤なんだってさ。俺初めて知ったわ、そんなの」

 じゃまた来るわと言って、篤史は帰って行った。箱には、会社の社長の名刺が張り付けられていた。たぶんマーシーの父親のだ。まだ自分の名刺もないんだ。美那は笑った。それに篤史のやつ、近所だなんて言ってたけど、車で十五分はかかる隣の市じゃないの。お茶の一杯も出してあげればよかったと、篤史の姿が見えなくなってから美那は思った。

                                                                                        ⑤につづく
                           

                          


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