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小説【ブレインフォグの明日】①

 はじまりは、味覚の変化だった。

 日曜日の朝。コーヒーカップに口を付けたとき香りがなかった。バタートーストは味のない高野豆腐を噛んでいるようだったし、口に入れたサラダはジャリジャリするだけで、咀嚼し飲み込むとドレッシングの油がただぬるりと口の中に残った。その後じわりと熱がでて、三八度四分まで上がるのに一時間とかからなかった。

 まずい……、新型コロナ? なぜどうして? どうしよう、どうなるの? 美那の頭の中で思考が巡る。とりあえず解熱剤を飲んだ。冷凍庫からアイスノンを出して頭に当てる。明日起きたら、まずは会社に連絡をする。あとは、あとはどうしたらいいんだっけ……。病気に縁がなく、掛かりつけの医者なんてない。そうだ、確か保健所に連絡するんだっけ。明朝もこのままだったら電話を掛けよう。早く夜が明けてと祈る。不安の沼の中、美那は悪寒を抱くように身体を丸める。

 いったいどれだけか、ほんの少し眠ったのか、やがて胸苦しい夜が明けた。期待に反して状態は何も変わっていない。どころか、定まらない身体に倦怠感が昨夜より増しているのだった。

 午前九時を待ちかねて保健所へ電話を掛ける。通じない、一向に繋がらない、ベッドに横たわったままリダイヤルを繰り返す。午後二時を過ぎてやっと電話が繋がった。ああ、良かった、これで何とかしてもらえる。美那はこれまでの経緯と今の状態を、電話の向こうの保健師に訴えた。

「まずは四日間様子を見てください。昨日から発熱とのことですから、明後日までの自宅待機となります。その間、人との接触は避けてください。で、明後日の時点で状況が変わらないようでしたらPCR検査を受けていただき、それでコロナ陽性でしたら何らかの方法で療養に入っていただきます。もちろん重篤でしたら即入院の措置となります。状態によっては自宅療養か宿泊施設での療養もあります。症状が急変したらすぐお電話ください。ではお大事に」

 脱力感。こんなに息苦しくて不安なのに、電話口の簡単な説明だけで診察もしてもらえず、解熱剤のみで凌げって……。何も、何も、何もない。未知のウイルスに感染しているかもしれないというのに……。

 全身の関節が軋むように痛い。数年前に罹ったインフルエンザとは比べ物にならない。ついに咳も出てきた。このまま一人暮らしのアパートで死んでしまったら……。検査を受けるまでの間、病気の正体が分からない状態が恐ろしかった。

 いや、もしかしたらと、気持ちを奮い立たせてもみる。ただの風邪の可能性もある。明日にはけろりと熱が下がるかもしれない。

 ふらつきながらキッチンに行く。冷蔵庫の中に目ぼしい食べ物はほとんどなかった。テーブルの上の菓子パンと食べかけのチョコレートを掴み、空のペットボトルに水道水を満たしベッドに戻ると、同僚のいずみにラインを送った。

――私コロナかも

――え? 美那も? あんたの班、美那も入れて三人発熱してる!

――あのさ家から出ちゃダメなんだ なんか食べる物買ってきてくれない?

――ええっっっ! こわいぉ~

――だよね でもあんたしか頼める人いない お願い

――わかったぉ 

――ありがと! 玄関前に置いてくれたらいいから

 いずみに、涙マークとありがとうのスタンプを連続送信した。

 翌朝、アパートのドア前にコンビニの袋が二つ置いてあった。いずみが、私のために食料を買ってきてくれたのだ。ありがたくて涙が出てきた。やっぱり、同じ境遇の契約社員、持つべきものは相憐れみあう友達だ。

 三日目の朝、熱が少し下がった。そのあとは、三七度八分を行ったり来たり。食欲は無かったがパンを口に入れる。味のないボソボソとした食感に、美那はいよいよ確信する。自分は新型コロナウイルスに感染したのだ。

 果たして、その後受けたPCR検査で陽性と判定されたが、軽症という診断だった。これで軽症なの? 結局、一人暮らしだということで自宅での療養となった。保健所からは定期的に電話が入り、市からは療養セットなるものが届けられた。中を見ると、食料やトイレットペーパーなどの日用品が入っていた。

 幸い、検査で陽性が判明してから三日ほどでほぼ平熱に戻り、ひどい咳や胸苦しさも十日ほどで軽減した。十四日目に就業規制が明け、外に出てもよいとのお墨付きを貰ったのだった。 

自宅療養に入って十七日目の午後遅く、課長から電話が掛かってきた。

「ああ、ええっと、滝田さん? あ、どうも野中です。その後ええっと、体調のほう大丈夫ですか?」

「課長。ご迷惑おかけして本当に申し訳ありません」

「いやいや、別にあなたが悪いわけじゃないから、まあこれ、仕方ないことだから」

 美那は見えない相手に向かって、何度も頭を下げる。

「あのですね。滝田さんが、その、新型コロナの関係で療養二週間と、その後三日間の有給休暇ということなんですけどね、やはりですね、ええっと幹部会議でですね、今回同時にあなたの班で三名も感染したこともありまして、これちょっと言いにくいんですが、やはりこちらへの出社は今後お引き取り願いたいということで、今日はその件でお電話したんです」

「お引き取り? え、クビですか? 陽性と判断されて十日経てば、通常どおり出社していいと言われたんですけど」

 失業! 必死に訴えながら頭の中が真っ白になる。

「いやいや、これ解雇ではなく、あなたの更新時期もまじかですし、これで満了とさせてください。残った有給は換算しますんで。会社の方もこう言ってはあれですが、やはりほら未知のウイルスですから、今回三名の感染者が出たことで、ええっと少なからず、風評被害もありましてね。まあ一旦、滝田さんにはここで契約解除ということで、退社の手続きは通常どおりとらせてもらいますんで。聞くところによると、回復しても後遺症が残るというじゃないですか。滝田さん、ここはしっかり養生していただいてね、まだあなた、お若いですから」

 若いって私、三十三なんだけど……。

「あの、感染源は私ということなんでしょうか? 他のお二人も解雇なんですか?」

「いえ、あの方々は正社員ですのでね。滝田さん、申し訳ないが、あなたにだって会社の事情も分かるでしょう。ま、こちらも出来る限りはやらせてもらいますんでね、離職票とか諸々の手続きは、庶務から連絡させますんで。ま、お大事にしてください」

 一方的にそう話すと、課長はそそくさと電話を切った。

 私だけクビ! 同時間、全く同じ業務をしているのに契約社員の私だけが解雇。会社では、いずみを含む周りの数人が濃厚接触者として自宅待機となっているとも言われた。
 こんな状況で、非正規雇用の自分が無理に戻ったところで、バイ菌扱いを受けるかもしれない。

 うっすらと乳色のもやがかかったように、頭がぼんやりとしている。
 それは感染症のせいなのか、今さっき課長から言い渡されたことのせいなのか、何か、どこかがズレたまま時間をやり過ごすのだった。

                                                         ②につづく




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