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小説 【誰かが誰かのS】①

 時々、私はとても凶暴になる。

 それは、ソファの上で寝そべっているつーちゃんの、妙になまっちろい足の裏だったり、爪の甘皮を時間を掛け丁寧に整えているのが目に入ってきた時だったりした。

 私の足の裏はつーちゃんより硬くて黒ずんでいたし、爪ごときはパチパチンと切ったらお終いでいいわけで、男のくせに、いつまでも指先に執着して弄っている姿を見ると心底イラついた。

「ちょっと、ゲームばっかりしてないでお茶碗洗ってよ」
 私は洗濯物をハンガーに掛けながら、つーちゃんに命令した。が、返事はない。こんな狭い部屋の中で聞こえないはずはない。完璧無視だ。

 瞬間、私の脳みそが沸騰した。カゴの中のブラジャーをつかんで頭の上に高く振り上げると、つーちゃんの背中めがけて力いっぱい斜めに振り落とした。湿ったストラップのゴムがしなって、ビシッと小気味いい音がした。

「イテッ! いきなり何すんだよぉ。勘弁してよ」

 間が抜けた声に、私はもう一度ブラジャーを振りかざす。

「わかったって、茶碗洗うからさ。もう叩くの止めてよぉ」 
小さく背中を丸めて、頭を両手で庇っている。二十八にもなるのに、その姿もつくづく馬鹿だった。だいたい、私が狙うのはいつだって無防備な背中と決まっているのに、見当違いに頭を庇うなんて学習能力が欠けている。

「わかったんならいいわ。私をイラつかせないで!」
 フンッ! と鼻から息を吐き出すと、私は凶器のブラジャーをピンチにはさんだ。

「れい子先生。あれ塗って」

 夜になるとつーちゃんは、猫が尻尾の先まで飼い主に擦り付けるみたいに、ねっとりと私にもたれかかってきた。

「甘えるんじゃない」
 ご主人様の立場上、私は一応眉をひそめた。そして、いつものように彼の背中を見た。

 ほら、やっぱり! 
 思わずにやりとした。彼の背中にはみみず腫れが出来ていた。ベッドの上で、メンソレータムを丁寧に塗ってあげると、つーちゃんは大袈裟に身を捩り、痛いよ痛いよと芝居がかった声をあげ私の腰にしがみついてきた。

「何すんのよ、鬱陶しいから離れて!」
 私は、つーちゃんの手を振りほどこうともがいた。右手を平手でパシッと打ち、左手をギュッとつねって。

 そうこうしていると、急に彼の身体に力が入った。そう、つーちゃんのスイッチが切り替わった瞬間だ。私の髪を掴んでベッドに捻じ伏せた彼の目が、今度は獲物を前にした猫のように据わっていた。

 私は、ほくそ笑んだ。ベッドのシーツはメンソレータムの匂いが沁み込んでいて冴えないけれど、その冴えない匂いを嗅ぎながら、私たちはいつものように格闘技のようなセックスをした。

 ウェーターをしていたつーちゃんと出会ったのは、去年の暮れ、保育士の同僚アケミと行った居酒屋だった。私たちが、酒場に似合わない幼い顔つきと物腰をからかっても、彼はひたすらお辞儀を繰り返していた。酔っ払って横暴になった女たちに、終始厭な顔せず応対をしていた。

「気に入った。あの男(こ)、私、今日お持ち帰りする!」
 私がそう宣言すると、
「れい子先生にはいいかもねぇ、ああいう草食系」と、アケミはろれつの回らない口調で、即座に賛成してくれた。

「ねえねえねえ! 外で会おうよ、一緒にラーメン食べようよ、そいでもってホテル行こうよぅ」
 勢い付いた私は、注文した芋焼酎のロックが届いた時、ストレートに彼を誘っていた。

「やあだ、れい子ったら、まるでオヤジじゃん」
 となりで、アケミは大笑いしている。

「いいっすよ」

 意外にも、彼はあっさりと了解した。グラスの下の濡れたコースターをひっくり返すと、素早くケータイ番号を書いて元に戻した。

 結局その夜は、ラーメンだけ啜って、お持ち帰りなしで別れた。彼のふわふわとした感じが、なんだか心地良かった。このまま放してしまうのは勿体ないと私は思い、その後も、私は彼目当てに居酒屋へ通いつめ、つまらぬ軽口を叩き続けたのだった。

 しばらくするとつーちゃんは、いつの間にか私の部屋に住み付いていた。ほんの僅かな隙間に、ちゃっかり入り込んだ猫みたいに。けれどもそれは、彼がいつでもするりと入り込めるように、私の方から仕掛けた罠みたいなものだったけれど。

「ササエル?」
「だからぁ、れい子先生は思いっきり仕事してよ。ボクが支えてあげるからさ。ねっ!」

 正体もなくころころに眠りこけていたのに、眠気がいっぺんに吹き飛んだ。深夜二時。熟睡しているところを、つーちゃんに揺り動かされて起こされたあげくに、私は最悪な報告を受けていた。同棲して二ヵ月と経たないというのに、至福の時も束の間、彼は私になんの断りもなく、仕事を辞めてきたというのだ。
 悪夢の再現か……。一瞬、厭な予感が私の頭の中を駆けめぐった。

「支えるって……、はあ?」 

 私はもう一度、問い質した。だいたい五歳も年下の、それもたった今、プータロー宣言したあんたが、いったいどれほどの支えになるっていうのさ、ふざけんじゃないよ!

「居酒屋の仕事、あんまり向いてないんだ。それに、れい子先生といつも擦れ違いばかりだしさ。これからは夜もずっと一緒にいられるんだよ。いいでしょ! だから、ね?」
 へらへらと笑いながら、つーちゃんは米搗きバッタみたいに頭を下げている。

「信じらんない」
 情けなくて涙も出てこない。私って、どうしてこうもダメな男を好きになっちゃうのだろう。彼になのか自分になのか、呆れ返った私は、つーちゃんの背中をグーで思い切り殴っていた。

 すると、つーちゃんは殴られた被害者なのに、ごめんごめんと低姿勢で謝るばかりだ。そんな卑屈な姿に、怒りがさらに込み上げてきた。

「許せない。仕事辞めちゃうなんて、バッカじゃないの!」
怒り心頭だ。
「出て行って。ここから出て行ってよ!」

 治まらない気持ちのやり場がなく、私は力任せにつーちゃんの背中や腰を、これでもかこれでもかと殴ったり蹴ったりした。彼は一切の抵抗もせず、丸まって制裁を受け続けている。
そのうち、殴っている私のこぶしがジンジンと痺れてきて、終いには手首まで痛くなってきた。

「いったい、どうしてこうなるのよ!」
 私は泣きながら、つーちゃんを折檻し続けた。そして、ついに疲れてソファに倒れ込んだのは、結局私の方だった。

「れい子先生の気が済めば、ボクそれでいいんだ」
 なのにつーちゃんは、自分をボコボコに殴っていた私の腕を、ごめんねと言いながら擦っている。
なんなの? これがあんたの言う支えってこと? 

 この日を境に、つーちゃんは私のサンドバッグになったのだった。

「摩子ちゃんのママ、ちゃんと時間までに、お迎えに来ると思う?」
 抱っこしている赤ん坊の口元を拭いていた私は、壁の時計をちらりと見たあと、部屋の隅で蹲ってお絵かきをしている女の子を見やった。

「今日も遅れるんじゃない。あのお母さん、いいかげんだもん」
アケミが首を竦めた。

 午後五時半を回って、正面玄関の一番近い部屋に、親の迎えを待つ数人の園児が集められていた。九月も下旬ともなると日暮れは早い。園庭は一時間ほど前まで、子どもたちの賑やかな声で溢れていたが、今は外灯の明りにブランコやジャングルジムがぼんやりと浮かんでいるだけだ。

「それまでああして、お絵かきしててくれるといいわね」
「れい子ったら、気付いてないの? 摩子ちゃんて、いつも小さな子いじめたり、急に癇癪起こしたりしてすごく扱いづらいのに、ママが迎えに来る時間が近付くと、ああしておとなしくなるんだよ」
「なるほど。お母さんの前では、とてもいい子なわけね」

 どんなに酷い親でも、結局、他には頼れないことを、幼くても本能で察知しているからだろう。
 私は保育士なのに、子どもが実のところあまり好きじゃない。深い考えもなく、なんとなく保育士になってしまったけれど、実際に子どもたちの群れの中にいると、剥き出しのエネルギーに辟易とすることがある。

 そんな自分が、もし母親になったとしても、我が子と四六時中向き合うのは、とても出来そうもないと思う。自分のやりたいことも我慢して子育てしているのに、子どもは言うことをきかない、思うようにいかない。
 きっと癇癪を起こしたいのは親の方、親だからって完璧を求められても困るのだ。仕事で限られた時間だけ、不特定多数の子どもと接している保育士と親とはわけが違う。

「遅くなって、すみませーん」
 やっぱり摩子ちゃんのママが、今日も最後のお迎えだ。それも保育終了時間を、三十分も遅れてやってきた。

「仕事帰りにスーパーに寄ったら、そこでリカちゃんママにばったり会っちゃってぇ。それでほら、あの人ってすっごいおしゃべりじゃないですかぁ。私急いでるのに、彼女ったら全然KYなんですよぉ」

 また始まった。この母親はいつも言いわけから入る。その言い分も、遅れたのは自分のせいじゃないという。

「摩子ちゃん、お迎えがいつも一番最後で寂しそうなんですよ、お母さん。だから、早く来られそうなときは、少しでも早くお迎えに来てあげて下さいね」

 保育士らしく、私はゆっくりと言葉を選んで言った。
 とたんに、摩子ちゃんのママの顔色が変わった。

「先生に言われなくてもわかってます。これでも精いっぱいなんですよ。摩子は私の子ですから、私の気持ちはちゃんとわかってくれてます」
 細い眉を吊り上げ、唇を歪めた。そして、部屋の隅で蹲っていた子どもの名前を呼んだ。

「摩子! 何してるの。おうちに帰るわよ。早くいらっしゃい!」

 摩子ちゃんは、何かに弾かれたようにパッと立ち上がった。大急ぎで走ってくると、母親を上目遣いで見上げた。

「さあ、帰るわよ。グズグズしないで、早く靴履きなさい」
早く! 早く! 早く!

迎えが遅くなったのは自分自身なのに、そのことは棚に上げて子どもを叱りつけている。
 小さな足が何とか靴に納まって、ようやく立ち上がった摩子ちゃんに、母親は、先生にさようならは? と言って、頭を上から押さえ付けている。そして子どもの手を掴むと、力ずくに犬でも引くようにして帰っていった。

早く! 早く! 早く!
 きっと家に帰ってからも、摩子ちゃんはあの呪文を、頭のてっぺんから聞かされるに違いない。

 真っ暗になった保育園の門の脇に、ひょろりと細長い人影が見えた。
「れい子先生、お疲れさま」
 つーちゃんの声だ。

「こんなところまでどうして来たのよ」
私はアケミの手前、つい裏腹な言葉を口にする。

「だって真っ暗になっちゃったし、れい子先生が心配だったからさ」
 つーちゃんは、私の大きく膨らんだショルダーバッグを持ってくれた。
 憎まれ口をたたく年上の女に、つーちゃんはとことんやさしい。こんなふうに自分を心配してくれる人間がいて、私は摩子ちゃんより数段しあわせだと思う。

「良かったら、アケミ先生もうちに来ませんか? ボク、おでん作ったんだ」

「うち? 何言ってんのよ。あそこはつーちゃんのうちと違うじゃない」
私が睨むと、アケミがまあまあと取り成した。

「じゃあ、お邪魔しちゃおうかな。いいでしょ、れい子」

「別に、いいけど」

 アケミは既婚者だが、子どもはいない。おまけに旦那が単身赴任中で、かなりお気楽な環境だ。

「わあ、私の座る場所、ちゃんとあるじゃない!」
 
 アケミは部屋に入るなり目を見張った。彼女が驚くのも無理もない。つーちゃんのおかげで、目も当てられないほどのゴミ屋敷状態だった部屋の中が、すっかり片付いていたからだ。

「だってさ、当然でしょ。居候の分際で一日中何にもすることがないわけだからさ、このくらいやっても当たり前でしょうが!」
私が息巻くと、

「はい、そうです。れい子先生の言うとおりです。れい子先生は全然悪くありません」
と、つーちゃんはしおらしくうなだれる。

「よろしい。素直な良い子のお返事だ」
 私は背伸びして、従順なつーちゃんの頭を撫でた。私に合わせ身を屈めた彼は、聞き分けのない保育園児よりうんと可愛らしく思える。

 そのあと私たちは、つーちゃんの作ったおでんを囲んで酒盛りをした。おでんは、さすがに居酒屋仕込みで、大根の真ん中まで味が良く浸みていて上手い。

「良かったねぇ、れい子。まともな暮らしになってさ」
 アケミはおでんのタマゴを口いっぱい頬張ったまま、私とつーちゃんを交互に見てうんうんと頷いている。

 年下の、それも無職の男とのアンバランスな同棲がまともだなんて、それまでの私の暮らしは、アケミの目から見てもやっぱり悲惨だったのだろうか。
                            ②に続く

              


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