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小説 【誰かが誰かのS】③

 結局、久志との関係は、彼の両親の干渉で解消したのだった。それは唐突に、実にあっけなく。久志に、この上もない良家のお嬢さまとの縁談が持ち上がったのだ。それもこれも、地元有力者としての父親の力の由縁だ。

「うちの息子のような子持ちの男と、いつまでも付き合っていてもねえ。先生にも将来がおありでしょうから」

 アパートの薄暗い玄関で、久志の母親はそう言いながら、脱ぎっぱなしの私のサンダルやパンプスを、草履の先で脇に除けた。

「おかげさまで裕樹も、あちらの方にずいぶん懐いているんですのよ。今まで先生には、親子共々、本当にお世話になりましたわ」

 彼女は深々と頭を下げて、饅頭の箱と一緒に、信用金庫の封筒を差し出した。

「良かったじゃん、あっさり別れられてさ。ああいう男は、下手したらストーカーになりかねないからさ。で、受け取ったの? その封筒」
 アケミが、ひよこ組の子どもをあやしながら小声で聞いてきた。

「まさか! 受け取らなかったわよ。私にだってプライドがあるわよ。公務員の倫理規定違反だしね!」
 私は、赤ん坊のおしめを替えながら言った。

「倫理規定違反? この場合、全く関係ないと思うけど」
 アケミが首を傾げて言うので、可笑しくて笑った。

そしてそのあと猛烈に泣けてきた。涙と鼻水が、赤ん坊のお尻にぼたぼたと落ちていった。封筒の中身がたったの五万円だったことや、あんなに威張ってたのに、結局女と別れることまで親掛かりだった男のふがいなさが悔しかった。
 そしてなによりも、あんな最低のヤツだったのに、私は目いっぱいへこんでいた。つまり意外にも、私なりに久志を愛していたのだった。

 だからって、その反動で私はつーちゃんをサンドバッグにしてるわけじゃない。彼の気分はどんな時でも、たとえそれが私以外の人間に対してでも変わらなかった。人の怒りを自分の中に吸収するみたいに。つーちゃんはどちらかというと、サンドバッグじゃなくてスポンジだ。

 とにかく、つーちゃんが現れるまで、私の生活は荒んでいた。サディスティックな久志との暮らしは惨めだったけれど、それでもちゃんと生活の体は成していた。自分以外の誰かのために、食事を作り、掃除をし、洗濯をする。時には花だって飾った。

が、ひとりぼっちになったとたん、私の部屋は汚(お)部屋(べや)と化した。

 無能なケータイは、人が変わったみたいにウンともスンとも言わない。液晶の僅かな光の変化にすぐ反応できるように常に手元から離さず、絶えず顔色を伺っていたというのに。前触れもなく、突然震えるケータイの振動が、私をがんじがらめにし、あれほど臆病にさせていたのに。時には、投げ捨ててしまいたいほど煩わしかったのに! 

 私は自分に言い聞かせた。きっと、男の両親に望まれて資産家の妻に納まった件の令嬢は、私と同じように夫に虐げられているに違いない。今頃は、久志のサンドバッグとなっているに決まっている。そうであってほしい。

 私は、あんな最低な男だったのに、そんな男に一方的にいきなり捨てられた悔しさ惨めさに、のた打ち回っていた。久志の残していった物あれこれ全てを、手当たり次第ゴミ袋にぶち込んだ。 

 そのあと、私を支配したのは底なしの無気力という風だった。もう、どうでもいい。一事が万事、面倒。私は仕事から帰ると、ただひたすらぼんやりとやり過ごした。それが、一番ユルくて疲れないから。

が、情けないことに、意味のない女だと拗ねて何もしていないのに、当たり前に腹が減るのだった。とりあえずの空腹を満たす。そこいらに転がっているビニール袋から、カップ麺なんかを引きずり出して食べる。食べるものは、コンビニにいくらでもあるから困らない。

 ゴミは溜めに溜めたあげく、夜中にこっそり出しにいく。以前、収集日じゃない日にゴミを出して、管理人に嫌みを言われてから面倒になり、余計にルーズになってしまっていた。 

 着る物もいつも同じ、カーテンレールに吊るしっぱなしのハンガーから、保育園で着るジャージを引き剥がして着るとそのまま出勤した。帰宅するとすぐ、寝汗が浸み込んだすっぱい臭いのパジャマに着替える。自分の体臭が、鼻についてくるまで着続ける。 
 Tシャツもジーンズもブラジャーもストッキングも、脱いだ場所に脱いだ形のまま部屋に転がっていた。

 拾い上げるとその下から、食べ物のカスがこびりついた丼やスプーン、うす汚れた使い捨てマスクに未開封のダイレクトメールや気まぐれに持ち帰ったフリーペーパー、パチンコ屋のネームが入ったライター、公共料金の領収書にケータイの請求書、割れたCDケースに表紙の千切れたコミック本、地下鉄の出口で渡されたテレクラのティッシュや、乳液のサンプルなどなどなどなど。

 そして、そんな中に突然! 久志の靴下の片っ方や、彼専用の耳かきなんかが顔を出す。

 クソッ! バカヤロ! 何のケリも付けずに私の前から消えちゃって! こっちは生木が燻ってるんだよ! 地べた這いずり回らないと、消えないんだよ!

 私は空回りする悪態をつきながら、転がっていた割り箸でカビの生えた久志の靴下を挟んで窓を開けると、割り箸ごと外へ放り捨ててやった。
 
 とにかく久志が去ってからというもの、私の生活といったら仕事の時だけ辛うじて体裁を保っていただけ、その他の時間は、衣食住の全てに興味を失い、何もかもがごっちゃだった。無気力がチリとなりゴミとなり積み重なって、女やもめにも立派な蛆がわくのだった。

「ほんと、目も当てられなかったわよ」

 つーちゃんの作ったおでんを食べながら酒盛りしているうちに、アケミはすっかり出来上がっていた。おでんのこんにゃくを口に運びながら、アケミは私の過去をつーちゃんにばらした。

 ただし、ばらしたのは汚部屋のことだけで、久志とのことは曖昧に取り繕ってくれた。アケミはそこのところ、ちゃんと仁義を心得ている。

 だけど、つーちゃんは話を聞きながら、どこかしら悲しそうな目をしている。私の過去を知りたいはずなのに、彼は決してそのことに触れようとしない。ご主人様は私で、つーちゃんは下僕(しもべ)だからだ。私は、そんな彼の立場と気の弱さに、いつも付け込んでいる。

「汚部屋? そうっすか? ボクが初めてこの部屋に来たときは、それなりだったけどな」

 そりゃそうよ。私は言葉にするかわりに、牛スジを噛みしめた。だって私は、つーちゃんを見初めた瞬間に蘇ったのだから。

 とたんに毎日、念入りに化粧をした。当然のごとく、ジャージ出勤もキッパリと止めた。そして、つーちゃん目当てに居酒屋に繰り出す。その時は、思わせぶりなレースたっぷりの勝負下着を身に着けて。

 不思議なことに、身なりに意識がいくと、ご飯を作り洗濯をして、ゴミだって指定日にきちんと出せるのだった。久志に捨てられて、あれほど七転八倒していながら、結局私はなんて単純な女なんだろう。 
 悲しいことも苦しいことも、時間が解決してくれるって本当だ。というか、男で受けた傷は男で治せって、友達の誰かが言ってたっけ。

アケミが帰ると、私が何も命令しないうちに、つーちゃんはキッチンに立って片付けを始めた。
 良かった良かった。つーちゃんが仕事を辞めてきた時、一瞬、DV生活の再現が起きるのではと、不安が頭をよぎったけれど、本当に良かった。

 もちろん、つーちゃんの性格がそうさせているのだけれど、やはり何事も最初が肝心だ。彼の失業に、本気で怒りをぶつけた私の勝ちだ。その時から、つーちゃんは私の下僕となりサンドバッグとなり、スポンジとなった。 久志とだってそうだったように、男女の間柄なんて、最初の力関係が、その後の関係を決定付けるのかもしれない。

 私は、お皿を洗っているつーちゃんに、後ろから抱きついた。
 といっても、つーちゃんの方が背が高いから、大木にセミがしがみついている格好だ。そして、彼の背中にぴったりとバストを押し当てた。

「お皿、しっかり洗ってる?」

 私は、両の腕をつーちゃんの身体の前に回した。左手は彼の厚い胸板に置き、右の手のひらは、彼の一番真ん中に当てた。そこには、今はまだ平常心の可愛らしい〝つーちゃん〟があった。

「うん、洗ってるよ。れい子先生に叱られないようにね。ボク、いい子でしょ?」

 彼はわざと惚けて、洗い物の手を休めようとしない。 
 私は、園児の頭にいい子いい子をするように手のひらで、可愛らしい真ん中の〝つーちゃん〟をゆっくりと撫でた。すると、〝つーちゃん〟は、とても素直に反応し始めた。

 それなのに! 肝心かなめの彼は、知らんぷりを決め込んでいる。その反抗的な態度に、今度は急に腹が立ってきた。私は、やんちゃになりかけた〝つーちゃん〟を、思い切り強く掴んだ。

「うわ! 何するんだよう」

彼は腰を振って、セミの私を振り払おうとする。

「可愛さ余って憎さ百倍ってこと!」

私は、ご主人様の立場上、絶対に力を緩めなかった。

 けれど、結局最期には振り落とされて、キッチンの床に尻餅をついてしまった。つーちゃんは、くるりと向きを変えると、泡だらけの濡れた手のまま私に覆いかぶさってきた。獲物を狙う猫の目になっている。

そう、これでいいのよ。

 私たちは、けらけらと笑い声をあげながら、着ているものを急いで脱いだ。そして、肘や足首にTシャツやパンツをひらひらと引っ掛けたまま、お互いを思い切り気持ちよくさせようと、欲望に、これ以上ないほど従順に愛し合う。
                             ④へ続く

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