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  • 木曽義仲関連の史跡・伝承(中津川エリア)

    中津川エリアにある、木曽義仲関連の史跡・伝承について

  • 恵那神社

最近の記事

おがらん様(落合五郎兼行之城跡)

平安時代の終わり頃、木曽義仲の家来であった落合五郎兼行が美濃口の押さえとして、落合に館を構えていたと言われています。 落合五郎兼行は、平家物語巻七寿永二年(一、一八三)、五月の『火打ち合戦』の項に名を連ねています。 木曽義仲の育ての親、中原兼遠には樋口兼光、今井兼平、落合五郎兼行と義仲の妻になる巴があり、平家物語の中で、義仲の有力な武将として取り上げられています。 館跡とされている所は、『おがらん』と呼ばれ、『伽藍』という言葉からきたと推定され、近くには『小姓洞』という地名も

    • 坂下神社の花馬祭り

      花馬のおこりは、木曽義仲公が平家追討出陣の折、武運長久を祈願するため坂下神社へ参拝しようとしましたが、木曽川が氾濫して渡舟が出来ず、妻籠城主樋口次郎兼光の献策で、幣を結びつけた かぶら矢を社めがけて射かけると、矢はうなりをあげて川を越え、草原にグザッとささりました。対岸に出迎えた氏子頭 原善右エ門義明等が、その矢を受けとり、下組の馬の鞍にさし直ちに坂下神社へ代参しました。  この効があったのか、平家追討に成功した義仲は、旭将軍を賜わりました。その知らせが伝わってくると坂下村三

      • 木曽義仲が奉納したと伝わる恵那神社の社宝「伯耆貞綱の名太刀」

        恵那神社誌によると、古くは信濃国木曽郡全域も氏子であり、木曽義仲が旗揚げの際、戦勝祈願を恵那神社で行ったという伝承があり、祈願詞も保存されています。その時、木曽義仲が奉納した「伯耆貞綱の名太刀(県指定重要文化財)(時代:平安)」が社宝であり、今は「苗木遠山史料館」に保管されています。

        • 義仲駒つなぎの桜

          中津川市神坂の霧ヶ原には牧があり、その名残として付近に牧や馬籠の地名が残るのも偶然ではなく、名馬「するすみ」を産したとも伝えられています。また丸山城近くに桜があり、木曽義仲がこれに駒をつないだと伝えられています。

        おがらん様(落合五郎兼行之城跡)

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        • 木曽義仲関連の史跡・伝承(中津川エリア)
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          2本

        記事

          「木曽義仲の妹 菊姫(宮菊)の五輪塔(村指定有形文化財)」

          鎌倉時代の歴史書といわれる「吾妻鏡」に『菊姫(宮菊)は北条政子の養女となり美濃国遠山荘の一村を与えられた』とあり、遠山荘が馬籠と目されています。菊姫(宮菊)の五輪塔は永昌寺の西方200mのところにあり、ここの地名は比丘尼寺といわれています。五輪塔は7基あり鎌倉時代の様式を持っています。しかし1基だけ一部分で部材が異なる物があります。山口村指定有形文化財に指定されています。

          「木曽義仲の妹 菊姫(宮菊)の五輪塔(村指定有形文化財)」

          恵那神社の石碑A 碑文書き起こし・解釈

          「碑文の解釈」(中山道歴史資料館さんに依頼) 恵那神社は美濃の国にある。大きな金槌のような恵那山の頂に三大神をまつる兼ねた社がある。広い空間には前社がある。それは山麓にあって創建年月が詳しく延喜式の台帳に既にその名は存在している。 日本武尊東征の記載の箇所に信濃坂の山神というのは此の神である。遠くに山上にあって三十の神の威力は薬につき従い、庶民は尊敬していることと知るべきである。従になって戦国時代になると祭りは祝詞も誉げず豊かに稔った。 中津川村の豪族 小木曽五郎兵衛は諱名は

          恵那神社の石碑A 碑文書き起こし・解釈

          恵那神社の石碑B 碑文書き起こし・解釈

          【碑文の解釈】(中山道歴史資料館さんに依頼) 恵那山林は旧(かつて)幕府の直属の士であった山村氏が邑(村)を采配していた。明治維新に廃藩置県の令が下り、各々の藩は分割された。そして属官、属民は境界が接してしまった。 また神社数派の下級役人たちは境界を決定することができず、しかもその地域に居住している人たちは、そのことには関知しなかった。そこで中津川の郷(さと)の家柄高き小木曽彦十翁、諱(いみな)は政保、生まれつきの資質は「深着冷静で意志固く、志を奮い起こす」などの特徴が昔のど

          恵那神社の石碑B 碑文書き起こし・解釈