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翌日、昔のこと、これからのこと。

翌日、不思議な旅。


打ち上げの後、
潰れもせず、
かと言って全く飲まなかったわけでもなかったぷにさんとフルートの友達は
近鉄と地下鉄を乗り継いで
浪速区内のドミトリーに泊まりました。
(二次会以降とか考えてしまって
夜どうするか悩んでいたら宿が埋まってしまって
苦肉の策で取った宿でした。
春節を甘く見てました。本当にホテルがない…)

翌日、
起きたらねねけんの打楽器で
前日客席パートだったOさんから
とりあえずご飯だけでもご一緒したいと
声がかかって、
Oさんには新世界でモーニングを
二度も食べさせてしまいました。
(集まる前に天王寺でもモーニング食べてたらしい)


追加でミックスジュースも頼みました。おいしかった!
ここの名物らしい。喫茶通天館。

本当はぷにさんとOさんのもう一つの共通の趣味である
音ゲーとかクイズゲーとかご一緒したかったんですが
(Oさんの弐寺生で見たいんよね一度。
絶対かっけーはずなので)

フルートの友達が結構鉄オタなので
(彼ほどではないにせよぷにさんもですが)

阪神に2編成だけ残ってて
もうすぐ引退する5001型(青胴車)を
見つけに行きたい、と、
阪神尼崎で延々、普通電車待機するという
苦行に付き合わせてしまいました。
(昔は阪神尼崎界隈もゲーセンいくつかあったんですがね…)

まあ、ホームでそこそこ話に花が咲いたので
よかったんですが。


実はボケてるけど、フルートの友達が
阪神西宮通過時に青胴の撮影に成功していた。

そこから急行で梅田に戻って
荷物預けてとかなったら、
関空快速ギリギリの時間になってしまって、

大阪駅でOさんと解散して、
2人は関空から鹿児島に戻って、
ツアーは終わりました。

中3の夏、時が止まった日。

199x年、8月10日。
ある程度以上の結果は取れるだろうと
挑んだコンクール県大会。
冒頭で曲が止まる大惨事。
そこから立て直すも、課題曲頭から暴走。
自由曲も、うっとりさせないといけない曲なのに、カッスカス。

「普段の6割くらいしか実力だせなかったなぁ」
と、語る顧問。

A部門38校を1日でこなす過酷スケジュールだった時代。

「プログラム23番、
○○中学校、

銅賞。」

…自分たちの代でこの結果を取ること、
受け止められませんでした。

成績発表後、バスに乗るまでの道のり、
乗ってから、
みんな泣き崩れていたし、
俺も涙が延々止まらなくて、
一生で流した涙の半分くらいの涙を流しました。
申し訳ないけど父やばあちゃんの葬儀の時より
この日は泣いたと思います。

そして、とんでもない深夜に帰っても眠れず、

そこから、

ぷに少年は、
時が止まりました。

東京の、当時吹奏楽も有名だった、
おしゃれな有名私大を出て、
交通ジャーナリストか、旅行会社で働く人になる、という夢が、

「この悔しさを晴らして、止まった時を取り戻す」に変わりました。

それで、進路のことについてはめちゃくちゃ秋から親とも先生とも揉めることになります。
結果、初回に書いた通り
音楽コースのある私立は併願で合格するも進学せず、
公立自称進学校に行くことになるわけですが

部活しに学校行ってるようなもんでした。
勉強は早くに脱落して。
で、この高校からでも当初「音楽教員」を目指して、ユーフォニアムも先生について、ピアノも習って…でしたが

部活でちょっとした時間が起こります。
詳細は、当時の部員の名誉のために書きませんが、
絶望しました。
元々自称進学校体質の学校には
勉学面では嫌気がさしてましたが、
部活でも絶望した。
この日、家に帰って、

「もう我慢の限界。
高校やめたい。
どこかに転校するか、受け直すかしたい」

って親の前でビービー泣きました。

そんな俺に親は
「高い上級学校の学費は出してやれないけど、
とりあえず、残りの高校生活、
どう過ごしてくれても、どんなに成績悪くても
文句言わないから、
卒業だけはしてくれ。
好きなように、わがまま放題過ごしてくれていいから」

って言ってくれました。
この一言で、全てが吹っ切れて、
残りの高校生活、とにかく部活は
わがまま放題させてもらったので、
…まあ、嫌われましたね他の部員に()

初回に書いた通り。
途中で諦め、
音楽から科目を社会科に変えて勉強するも全落ち。
そして諦めきれずに7年後の再受験。
からの、どうしても取れない必修単位や、
精神疾患等の理由での退学。

その後、吹奏楽部に直接関わる機会ができたものの、
そこで現場を見て、
「自分には教員はやれない」
という現実を見ます。

それでも、音楽の現場に立ち入らせてもらえたのは、
いろんな友人たちの協力があったからでした。
さらに数年後、
隣の隣の県のとある高校と、
正式に外部講師としての招聘を受ける機会があり、
そこでも、たくさんの経験をさせてもらいました。

そこで感じたこと。

ぷにさんは基本コン厨です。

7年間その高校で
専門教育を受けてないながらも
外部講師をさせてもらって、
演奏内容も結果も伴って
本当に嬉しくて、
涙を流したこともありました。

でも、そうでない時も、両方見ました。
モチベーションないのにそこそこの結果になってしまった時。
心からみんな満足いったけど、結果はそうでもなかった時。

ある時から、とある言葉がこの学校の合言葉になります。

「全ては演奏後の達成感のために」

まずは達成感を得られないと
楽器を演奏する楽しみを得られないから、
結果はその後。

だから、前哨戦となるバンドフェスティバルも
本気でした。
演出とかもかなりガチで考えました。

そこの先生が転任され、
外部講師としての役割が終わった後、
今度は奏者として復帰します。
気がついたら色のことはどうでもいい、
とにかく自分も達成感を得てステージを降りる、
そんな気持ちが芽生えていて、
賞の呪縛から解き放たれて
アンサンブルコンテストに向かっていました。

結果、賞の色は
2年間とも、想定外にいいものをいただいてしまいましたが。

今年度結果をYouTubeライブで聞いた直後。
この後目の前のガストで超祝勝会でした。
本当に今年度あの色が取れるとは思ってなかった。

これからこんな風に演奏していきたい。

そこからの、オレ吹。

…短期間で濃密に、
周りの技術も音楽性も高いメンバーと
心から演奏を楽しんで、
本気で練習して演奏して、

14歳の自分が
止まってしまった時を
ようやく進めることが出来て、
「結果はただの結果だ」って
胸を張って思うことが出来るようになったと
今は確信しています。

そういう意味でも、
まだコン厨ではあるけれど、
「自分が納得いって、誰かの心に届けば
もちろん努力はするけれど、
第三者が評価するのがコンクール。
どんな色がつけられても気にすることはない」

今は本気でそう思えるようになりました。

気づくのが遅すぎましたね。

納得行けば銅でも笑い飛ばせるし、
金で代表を今後取ることがあれば
心の底からびっくりしながら
「ありがとうございます」と受け入れられるようになると思います。

心も成長させてくれた演奏会でした。

さて。

3/3と27にもこっちで本番があります。
一つ一つ、
納得して楽しんで、ステージを降りたいです。

管楽器人生の、次のターンだな。

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