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地域の物語と記憶をつなぐもの——地域映画『まつもと日和』を観て

さきほど長野県松本市を舞台とするドキュメンタリー映画『まつもと日和』(三好大輔監督作品)を観てきた。新宿ケイズシネマで行われている東京ドキュメンタリー映画祭の一環として上映されたもので、最初に書いてしまうと、これが実に素晴らしい作品であった。

現代において地域の記憶や記録とどのように向き合うことができるのか。本作が投げかけるそうした問いかけは、ここ数年、僕にとっても重要なテーマであり続けている。『南洋のソングライン』など近年の著作もそうしたテーマのもとで書かれたものと言えるだろうし、瀬戸内海の国立ハンセン病療養所「愛生園」での取材や、昨年まで沖縄県立芸術大学のプログラムで幾度となく訪れた沖縄の読谷や沖縄市でのリサーチもその延長上といえるかもしれない。

だからこそ、『まつもと日和』の試みはとても刺激的なものだったし、「映画や音楽を通して、こんなことができるのか」という新鮮な驚きがあった。ひとりでも多くの方に観てほしいし、それが叶わないのであれば、こちらの予告編だけでも。

ちなみに僕は年明けの1月8日、信毎メディアガーデン(長野県松本市)で開催されるイベント「MIKUSA MEETING」のトークセッションに登壇することになっている。『まつもと日和』はこちらのイベントで中心的な役割を担っている佐藤公哉さんが音楽を担当していて、その縁から新宿ケイズシネマに足を運ぶことになったのだった。

佐藤さんはMIKUSA PROJECTと題した郷土芸能のリサーチ~クリエイションのプロジェクトを続けていて、その成果を反映したKIMIYA SATO MIKUSA BANDという音楽グループでも活動している。そんな佐藤さんが参加しているのだから、きっとおもしろい作品に違いない。そう思い立って劇場を訪れたわけだ。

『まつもと日和』はまつもとフィルムコモンズという市民団体から生まれた「地域映画」だ。松本で撮影された古い8ミリフィルムを収集し、修復し、当時を知る市民ともに鑑賞し、意見を交換し合い、一本の作品として束ねる。そうしたプロセスのもと作り上げられている。劇中では戦前のフィルムも使われているけれど、もっとも多くインサートされるのは高度経済成長期の華やかな松本の風景だ。

この映画では、そうしたフィルムを家族や地域住民が共に鑑賞しながら、思い出を語り合う。「あ、◯◯おじさんだ」「この人、◯◯おばちゃんだよね、懐かしい」と、当時を懐かしむ会話が繰り広げられ、肉屋やデパートの屋上の記憶が語られていく。その地に生きた人しか知らない「小さな物語」が積み重ねられることで、地域のかたちが立体的に浮かび上がってくる。

松本にかぎらず、分厚い市史に載っているのは歴代の市長や大企業の社長ばかりだし、語り継がれるのは有名な将軍の武勇伝や地元の名士の成功譚ばかりだ。でも、同時代に生きているのはそういった名前のある人たちばかりではない。何気ない街の風景を映した8ミリフィルムの映像は、名前のない人々の小さな物語が存在していたことの証でもある。

ただし、当時を知る人々だけでこうした古いフィルムを観ても、ノスタルジーたっぷりに昔を懐かしむだけで終わってしまうだろう。この映画では劇中、さまざまな世代がフィルムを共に鑑賞する場面が出てくる。子供や若者は現在とは異なる松本の風景に驚き、老人たちは懐かしむ。現代に生きる人々がそうやって語り合うことにより、地域の物語が繋ぎ直されていくのだ。

映像や音、絵画、あるいは郷土誌などの形で記録された地域の物語を今、僕らはどのように継承することができるのか。「継承」という表現が堅苦しいようであれば、「活用」でもいい。過去と現在を繋ぎ合わすためには何ができるのか、各地でさまざまな試みが進められている。

少しだけ自分の話をしたい。
僕は特定の地域に取材に行くと、必ずどこかのタイミングでその地の図書館や郷土資料館を訪れるようにしている。だいたいどこの図書館にも郷土史コーナーがあるので、そこで数時間をかけてその地の「小さな物語」に向き合うのだ。

アーカイヴの充実度は図書館によって異なる。ガリ版刷りの個人誌や老人ホームの会報まで丁寧に分類した図書館があれば、「出版社から発売されたものをとりあえず集めてみました」という手抜き感漂う図書館もある。手を真っ黒にしながら郷土誌をめくり続ける作業はなかなか楽しいものだが、ふと我に帰ったときにこう思うのだ。僕の前にこの郷土誌のページがめくられたのは何年前なのだろうか?と。

僕が探し出さなければ、この郷土誌は一度もページをめくられないまま廃棄される運命だったのではないか。ここに綴られた老人の物語は、誰の目にも止まることなくこの地球上から消えてしまったのではないか。その結果、歴代の市長や名の通った将軍の物語だけが語り継がれていくのではないか。ふとそんな思いに駆られてしまうのだ。

とはいえ、どこから手をつけていいのか途方に暮れてしまうような郷土誌や記録媒体の山脈に誰もが太刀打ちできるわけではない。そのため、『南洋のソングライン』など僕の著作では、そうした地域の物語をいくつかセレクトし、編み直す作業を行った。音楽的な言葉を使えば、リミックスとかエディットみたいな作業だ。

そうした作業がうまくいったのか、あるいは無駄なものだったのか、僕自身が判断することはできないけれど、『まつもと日和』で行われているのも同じことだと感じた。僕のような素人が見たらワカメの束にしか見えない8ミリフィルムを誰かが修復し、いくつかのシーンを選定し、繋ぎ直すことで初めてそこに写っているものと僕らは対峙することができるのだ。

一度記録された地域の物語を編み直すことで、その可能性を開く。あるいは混沌とした記録と記憶の渦をエディットし、リミックスやリマスタリングを施すことで、複数の「小さな物語」をアーカイヴする。『まつもと日和』がやっているのは、そういうことだと思う。

もちろん、東京の「リミキサー」に頼めばすぐにうまいことフィルムを繋ぎ、感動的なドキュメンタリー映画を仕立て上げてくれるだろう。でも、『まつもと日和』の場合はわざわざ幅広い世代の市民が参加し、模索しながらひとつの作品を作り上げていった。かつてこの地に生きた人々の物語を、現在ここに生きる人々が「自分たちの物語」として作り上げていくというプロセス自体にも重要な意味があるはずだ。

『まつもと日和』のエンディングでは、地元住民のあいだでも忘れ去られていた古い松本市歌を甦らせるシーンが出てくる。佐藤さんたちがプロデューサー/レコーディングエンジニアとなって老若男女の歌声を録音していくわけだが、「地域の物語を繋ぎ直す」というのはこういうことなんだと思った。ストリングスアレンジの見事さもあいまって、感動的なエンディングである。

1月8日のイベント「MIKUSA MEETING」に向けて、映画の感想をメモしておくかと書き始めたものの、想定外の長文になってしまった。ひとまず『まつもと日和』、素晴らしい作品なので、機会あればぜひご覧いただきたい。

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