月が欠け、こぼれいくらの乱が起こる

月が影に覆われるところを一緒にみませんか、という素敵なお誘いをいただいていたのを思い出して、ファミレスで友人に連絡を入れた。昼には別の友人と月蝕の話をしたため、その友人にも声をかけ、お茶会も兼ねて三人で夜空を眺めることになった。

私は寒気を完全に恐れていたので、外套と帽子とマフラーを身につけた。スキー場に向かうときの出立ちと同じだ。


田んぼの入り口で三人でひたすら月を見上げた。私は何の影が月を覆っていくのかわからず、月を隠す相手がデカすぎて怖いと頻りに言っていたら「それは地球だよ」と教えてもらった。まさか自分が月を様変わりさせる物体の一部になっていたとは!と笑ったが、今思うと全然常識がない。
たしかに、生活だったか理科だったかの授業で習ったような気もする。


他にも、地球や月の公転周期について、星座について、天体たちの位置関係についてを寒さに震えながら話した。
しかしこの話、公転と自転の二つの「回る」がある上に、回る側の星と回られる側の星がいくつもあって立場も変わるから、空を見ながら訥々と、複数人で語ることにしてはかなり紛らわしい。高確率でアンジャッシュが多発するため、この状況ではあまりしないほうが良いのかもしれない。


そうしている間に影はゆったり優雅に表れて光を隠していき、防寒虚しく自分達の手はすっかり手は悴んでしまっていた。
私の興味が途中から星に移っていったのも、月光が次第に弱くなっていくからだったのだとあとで気づいた。
あの時間、我々は明確に月に影響されていたことは、とてもうれしい。


さて、私は星座とは訳のわからないものだと思っていた。
点じゃん!乙女も山羊も獅子もコンパスも、双子の一人だって!というようなことではなく、地域、時期、時間、天候という様々な要因によって場所や見え方が変わってしまうなど、不定に等しいだろ、と。
そして同時に、プラネタリウムは毎回決まって同じことをアナウンスするのだから、それも一回きりで完結する娯楽だと思っていたことも付け加えておく。



しかし両者とも間違いである。
無意味ではないねと君が言ったから11月8日は星座記念日である。この時、君とは月である。



まず星座を自分の中で同定するとき。
ひとつ指針となる星座を見つけると、あとは他言語を学ぶように知識の枝葉が広がっていくのを感じることができる。夜空と私との関係が変わった。革命だ。

むむ、あの辺りの星の集合はきっと座(ざ)だな、と検討をつけて星座の表と睨めっこすると、そこそこの打率で同じパターンの星の並びが見つかる。
しかしそれにもコツがあって、冬の星座は赤い星を基準に見るとよりわかりやすい。



カペラ。アルキメデス。ベテルギウス。


私は、革命に加担したこの三つの赤い星の名前を、調子に乗って今後も唱え続けるのだろうと思う。

ちなみに、スバルか、かみのけ座か!?と騒いでいた星団は、実際はおうし座のあたりにあるプレアデス星団だった。和名でスバル。かみのけ座は残念ながらもっと等級の低く視認しづらい星の集まりなのだそうだ。

あともうひとつ。
私が幼いときに住んでいたところのひとつでは、図書館に小さなプラネタリウムが併設されていた。それに何度も行っては、神話や星座の説明に、なんとなく知っている話だな、と思い、特に何も得ないまま、日光を眩しがりながら家に帰っていた。

そして今夏、九州の科学館のプラネタリウムとゲームの好きなキャラクターたちがコラボをした。それに足を運んで上映を観たことは、思っていた以上に実際星空を眺めるのに役立ち、驚いた。

ありがとう、非現実のアイドル。君たちのおかげで星を見るための知識の基盤をもう一度整えておくことができたよ。
君たちのおかげで、私は素晴らしい夜空鑑賞ができたよ───


若干遠回りになってしまったが、プラネタリウムは年齢やそれまでの経験によって得られるものが変わる、本や映画と似た類の娯楽としての在り方もあるのだと知った。成長してから訪れるプラネタリウムは、想像以上に刺激的だし、星なぞ興味なさすぎて寝てしまうわいというのでなければ、ぜひ成長した皆さんには行ってみてほしい。


だから本質的に変化しないまま、短いスパンに何度も何度も、単に非現実的なドームと暗い空間にはしゃぐためにプラネタリウムに行っていた自分にとっては、新しい知識という旨みを得ることがなかったわけである。幼い頃の自分が何も得なさすぎただけかもしれないが、かつてそういう楽しみ方ができたということも大事にしていたい。純朴な楽しみ方は歳とともにできなくなっていくから。

星座が私の中でくっきりと存在し始め、それによって月蝕がよりよい記憶になったのは言うまでもない。一緒に月を見てくれる友人たちがいてくれるのもありがたい。
部分月蝕が終わり、皆既月蝕が起こってからはしばらく状況が変わらないので、一度お茶会を挟んだ。


温かいブルーベリーの紅茶。


白湯もよいものだが、味がつくと一層暖まる気がする。
月が満ち始めてからはもう一度外に出て観賞した。星座が分かり始めたことに味をしめ、うお座を三人で探していたら流れ星をみた。天体よくばり体験セット。

月蝕まわりの記憶について軽く記しておこうと思ったら、いやに長くなった。

経験と経験、知識と知識の紐付けができることは存外喜ばしいことで、これを感じるたびにこれこそが生きる意味だ!と錯覚しそうになる。それくらい素晴らしい。
たくさん紐づけたい。紐付けすぎると病気になるので注意する。


あとタイトルにある「こぼれいくらの乱」とは、特に意味のない言葉であることを併記しておく。