違う世界のこと


 「牛乳を買いに行こう」という海外のノベルゲームの概要を少し前に知った。それで思い出したことがある。


 たしか4-12歳のころ、壁や物を指でトントントンと3回叩かないといけない(頭の中ではそれに合わせてリズムを刻む)というルールを決めてしまい、急いでる時でもそのルールを思い出したらその場から離れられなかった。


それなら3回さっさと叩けば良いじゃないかと思うのだが、厄介だったのは、3回叩くことを3回する→3回叩くことを3回することを3回する→3回することを3回することを3回することを3回…というように、次第に数が増えていくことだ。新たな「3回」のフェーズに入っている場合それが終わるまでそこを離れられない。
途中で母に呼ばれたりしてよくパニックになっていた。駅の消火栓の上や手すり、ショッピングモールの壁などを指の腹で必死に叩いた。


厄介も何も自分で決めたはずなんだけど。


3回というのは自分が三人家族の一員だったからで、今後家族がバラバラにならないことを子供ながら切に願っていた結果そうなった。


???


そうなってしまったのだから仕方ない。
生きていると、そうなってしまったのだから仕方ない、としか説明の立ち行かないことが多すぎてどうしようもない。

因みにその後、父が単身赴任してからはその奇妙なルールはなくなった。それ以前になくなっていたかもしれないがそこはあまり覚えていない。でもあの新しい“3回”に入ってしまったときの焦燥感はたまに思い出して気が狂いそうになる。


さらに幼いときは、やり直し癖とでも言ったら良いのだろうか、何か気に食わないとその地点まで戻って全てを同じ条件に戻してやり直さないと気が済まなかった。
親にはそれで苦労をかけた。厄介な子供だ。
ピアノを習わせてもらっていたときも、一度ミスしたら最初から弾かないと気が済まず、本当に向いてなかったと思う。でもピアノのことは好きだからまた弾きたい。頭がおかしくならないうちに。


 先程、数が増えていくことの話をしたが、これと同じような感じで「2色の境」を思い浮かべて不安になっていたこともあった。
例えば赤と青に塗られた平面(をたいていは斜め後ろから見ているような角度)をイメージする。自分はその2色の境を、最小の面積で切り取らないといけない。
それだから、頭の中で一生懸命その真ん中に向かってズームしていくのだが、当然それにはキリがない。キリがないから考えるのをやめられない。少し前に流行った、無限にズームできる絵と同じである。
寝るときにそれが起こるとただでさえ困難な入眠がより困難になるし、学校で起こると授業が頭に入ってこない。
そんな時、自分はどうするかというと、気が狂いそうになりながら、他のことが頭を占めるまで耐える。でも消える時はパッと消えるので不思議だ。



 そういったことを思い出していると、なんとなく違う世界のことを考えている気持ちになる。頭の上にもくもくと白い塊が浮かんで、その中で全部が展開されているのだ。次第に白い塊は自分自身になる。たしかこれは文学における自然主義の潮流の中にあった感覚に近い。
白い塊は思考する。ありもしないことを考え、展開を続けて巡る。


 「牛乳を買いに行こう」は自分にとってはそういったことを思い出すゲームであった。主人公は自分とピッタリ同じではないはずなのに、いつのまにか自分を外側から見ているのに気づき、動悸が早くなる。

 大変良いフィクションである。