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命日


昨日は命日だった。
墓はニ年前に行ったきりだ。

死んだ場所にも一度も行っていない。
何度か行こうとしたが、いや行こうとしていないのかもな、とにかく結局行っていないから、たまにGoogleマップの登録地点を眺めている。


今年もガーベラが供えられたとさっき連絡が来た。


自分は毎日その人のことを考えているし、生者のための世界であるというスタンスを崩したくないという変な矜持のために、こういう日に特別何をすればいいのかわからない。

相手が死者の場合、祈りという行為は自分のためにあるような気がして、ひどく浅ましいもののように感じてしまう。




私は遺骨を少しもらってきてペンダントに入れていて、それをたまに食べている。

それをその人が望んでいたとは到底思えないのだが、私の哲学に従うと、一緒に生きていくことがせめてもの誠実さだと思うので、骨を食べている。私の一部として再び命をやっていてほしいのかもしれない。


これもまた祈りの一種であるのかもしれないが。




私は、死んだ人間の頭上に花が降るなんて考えることはしたくない。星を見ても見守っているなんてちっとも思わないし、骨のある場所に魂が残っているなんて思えない。
自分のために都合よく解釈しているような罪悪感はもう充分な気がする。


でもそうだな、もしできるなら、私が命を続けているうちに、そして命をやめようとしているときに、その人のことがなおも頭から離れない私を憐れんで、私の頭の上に花を振らせてくれたらいいのに、とは思う。