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☆#73『人生は廻る輪のように』エリザベス・キューブラー・ロス

 24,25歳くらいの時に読んで大きな衝撃を受けた。人を癒やす仕事、魂に関わる仕事をしたいという思いが自分の中で定まったのは、多分この本がきっかけだった。それまで、私は芸術家として世界に奉仕をしたいと思っていた。しかしそんなまどろっこしいことではなく(と当時の私は思った)、もっと直接的に生きていることに直結し、生の価値を高める仕事をしたいと思った。願い叶ってその数年後に天命が下りてヒーラーになった。
 キューブラーロスの人生は強力な運命の力に支配されており、前半生はナウシカ(漫画版)のようである。血の中に、苦しみの中に飛び込んでいって、人生の最奥の局面を目の当たりにし、解決に向かって等身大で奮闘していく。彼女を支えたのはひたすらに個人的な信念と感情であり、それは愛に貫かれていた。
 ただ同時に彼女は暴風の中に生きることを宿命づけられているような人で、その愛の実践は決して穏やかでもなければ順風でもなかった。むしろ多くの無理解と敵意の中で、いっそうその思いを先鋭化させていった。
「こんな人生を送りたい」と思いつつ、それに相応の勇気を自分が持ち合わせていなかったことは、今の自分にははっきり分かっている。私は臆病で、とてもこんなふうには生きられなかった。運命の強さということで言えば、私も普通でない力が働いている。しかしそれを生かし切れているとは思わない。彼女のような芯の強さがないから。それがこれから叶うのか、それとも叶わないまま果てるのかは、全然分からない。道が真っ直ぐに整う方向で、努力を続けてはいるものの。

 最初にこの本を読んだ当時、そしてその後長らく、なぜ著者がこれほどの奉仕と献身に身を捧げたというのに、道を進めば進むほど多くの人から敵視され、耐え難い苦しみの中で一生を終えたのか、分からなかった。
 勿論、著者は人生に起きることにはすべて意味があり、またそこから学ぶことがあり、重要なのは損失や被害に拘泥することではなく、全てを受け入れてなお前を向く、ということを誰より深く承知している。しかしその一方で、本書の総括とも言える最終章でこう述べている。

 一体どんな人生なのか? 惨めな人生。-505

 私は彼女は何かを間違えたのだと思った。例えば極端に過ぎた、支配的過ぎた、頑張り過ぎた、など。だから人生は彼女に優しく報いなかった、そう思った。しかし今回再読して、全く違う理解に及んだ。
 人生の終わりには、人は何かに後悔する。それは死期が迫った人、臨死体験者が広く共通して味わうことになる感情のようで、著者だけでなく、これまでに読んだいくつかの本も、同様のことを述べている。そしてその後悔の内容は「やったこと」ではなく「やらなかったこと」だと。
 だからやりたいと思ったことは全てやった方が良いということになる。ここに異論の余地はない。
 私は、著者はやりのこしたことのないように、全てをやり尽くしたのだ、だからこれで良かったのだと思った。死の床にある人々に対して、エイズ患者に対して、エイズを患った子供たちに対して、彼女が為し得たことは、人が試され得る最高にして最も難しい愛の実践だった。深く感じれば感じるほど、これら絶望と痛みと孤独の内にある人を放っておくことは魂の本意でないことが分かる。
 彼女は最初、エイズ患者を恐れたことを告白している(当時はまだエイズの全貌が明らかになっていなかった)。彼女は内なる恐れ、保身の欲求を恥じた。そして改めて彼らに救いの手を差し伸べた。それは彼女にとって、人生を貫徹するために必要な決定だった。エイズ患者は、それまでの人生を一貫して愛と奉仕に生きてきた人間に対する「この人たちをも愛せますか?」という天からのあまりにも率直で厳しい問いかけだった。
 人々はそれに対して憎悪で報いた。殺害予告を受け、脅迫され、施設を放火された。しかしそれはどこまで行っても「他人のしたこと」。賢ぶるつもりはないが「他人の自由」なのである。他者から向けられる憎悪と妨害に対して、彼女が救いの活動を撤回したら? 彼女は「やらなかったこと」を後悔して人生の幕を閉じたことだろう。
 確かに人々の反応は理不尽であり、おぞましいレベルに達している。しかし彼女は多分、と私は想像するのだが、死後のライフレビューにおいて、「私はやれるだけのことはやった。それでも人々は理解を示さなかった。良い。これで私に見切りはついた。人間としてはもう転生せず、次の次元に行く」と思っただろう。それはどのような在り方か、私は知らないけれども、#44『前世療法』には「人間の形をもはや取る必要ないレベルまで進化した霊的存在」が、人々の意識を導くということが書かれている。
 この世に未練を残さないためには「やりきること」と「諦めをつけること」と、この二つが必要であると私は直感する。「それでも人間は変われる」というのは私たちが最後まですがりたい良心であるには違いない。しかしそれは残念ながら、事実としては起こらない。「それでも、それでも」と望み続ければ、何回でも人は奉仕のために生まれてくるだろう。最後に、自分の思い通りにはいかない現実を受容するまで。
 多分、本当にやり切った人は学ぶことになる。「無理なものは無理なのだ。それが宇宙の本当の姿であり、善一色に染まらない世界もまた神の表れとして受け入れることしか人間には出来ない(逆にそれを拒絶する権利など人間にはない)」ということを。そして自分の愛がもっと正しく深く、抵抗なく届く世界に居場所を移す。
「生身」のキューブラーロスには言葉で言い尽くせないほどの不幸が襲い掛かったが、彼女の「魂」にとっては、これが起こるべき正しいことだったのだろうと、今回の再読で非常に腑に落ちたのだった。

 それから時代が移り、今ではエイズ患者への白眼視や蔑視は普通一般のものではなくなっている。「終活」などと言って、死から目を逸らすのではなく、むしろ死を直視して生の最後の価値を高めるということも一般的になっている。そして死後の生があることも、いくらかは広く知られるようになった。臨死体験についてはキューブラーロスが間違いなく最初の先駆者である(もう一人いるようだが、そちらはまだ読んでいない)。
 これら全てがキューブラーロスの命がけの行動と研究によってこの地上に根を下ろした。

 当然の、こしき選書入り。しかも最上位の一冊です。
 
 

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