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#160『新釈三国志』童門冬二

 またまた童門冬二さんである。つまりこれまたベッドの中で読んでいたのだ(詳しくは#159)。しかし今回は睡眠前ではなく、高熱を出して倒れ、その回復軌道にある時に、他に出来ることもないので読んでいたのであった。上下巻なのだが、下巻に手を出すことはなさそうである。つくづく、私は童門冬二さんの本を読むたびにケチばかり付けていて申し訳ないと思うのだが、これもまたなかなか苦しい所のある本だった。下巻を読むことはなかろう。
 構成としては三国志を初めから語るのではなく、著者がピックアップした所のみを語る。まあ、それは問題ない。で、そこに著者が日本の歴史との比較を加える。というか似ていると思われるものを連想する。これが圧倒的に要らない。
 確かに古今東西の歴史を見ると、「似ている…かな」というような人はいるが、同じ人間はいない。今、別の本を読んでいるのだがその本の中に「項羽に比肩する軍略の巧者は曹操くらいだろう。しかも曹操は兵法を学んだが、項羽は丸っきりセンスだった」と書かれれば、なるほど、そんなに凄かったんだ、と分かる。こういう意味での比較は良いのだが、単に似ているかどうかの話はするだけ無駄である。「だったら何」という話だからだ。
 例えば董卓というとんでもない悪党がいた。権力の事実上の頂点まで上り詰めたのだが、地獄の鬼の中でも鬼の王であるようなもののけがそのまま生身を得て生まれてきたような存在だった。だから信じ難い残虐非道の限りを尽くしたが、その動機はすべて強欲だったのである。
 不謹慎な例とは思うが、ヒトラーの方がマシである。なぜならヒトラーには結果的に失敗したとか予定調和的に暴走したという事実はあるが、そもそもの初期には明確にドイツ民族の復興というヴィジョンを持っており、しかも短期間でもそれは確実に実現した。その反面としての悲劇の虐殺や粛清があったのである。それにそもそもそうまでしなければならなかったほどドイツを追い込んだのは誰か?みたいな話になると、ヒトラー悪玉論もそう易々と受け入れられないものである。
 ところが董卓に至っては殺戮も暴力も全てが感情の発散なのであり何の目的もないのだから、弁護のしようもない。本当にこの人の魂は今頃どうなっているのだろうかと、改めて久しぶりに「董卓」の二字を見ながらたびたび思ったものである。
 話は長くなったが、童門冬二さんは「日本で董卓に似ているのは誰だろうか?」と続く。いや、いる訳がないでしょという。実際、いないし、著者自身なかなか思いつかない。最後に苦し紛れに「清盛くらいか」などと言っているが、全然似ていない。無理やり遷都したことと、いきなり上り詰めていきなり落ちたこと、強欲の限りを極めたこと、天皇(法皇)と対立したこと、この4点は確かに通じる。しかしそれ以上に、違う部分の方が多い。「董卓に似ているかも」などと言われたら清盛も地下で泣くだろう。
 私の世代(40代)はかつて(今もあるのかな?)若き日に知らずしてアメリカかぶれになっていたものだ。今もか。何でもアメリカが良くて標準で先輩だと思っている。よくよく見ると全然そうでもないにもかかわらず。これが私たちの親世代くらいになると「中国」なのである。
 この種の固定観念に気付くことはなかなか難しいようだ。著者は「やはり董卓のような人間は中国の大きなスケールでしか生まれないということか」と〆ていたが、善人が生まれるならいざ知らず悪人が生まれるのにスケールを持ち出しても何の意味もないだろう。アメリカでまた学生が銃乱射。「やっぱりアメリカは凄いなあ」とはならないように。
 という訳で、本書は根本的に目の付け所がずれているので、しようもない本になっている。しかし久しぶりに三国志を読みたくなった。

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