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#159『小説 千利休』童門冬二

 最近自分の中ではっきりしてきたことなのだが、日中と就寝前では求める本が違う。当たり前のようだが、今更気付いた。
 日中は仕事の足しになるもの(健康、病気、心理学など)を読みたくなる。また、日中の頭脳でないと咀嚼できないような苦手な分野の本を読む。ヒーラーをやっているが、生理学などに関しては無知も良い所なので、仕事の隙間や仕事がそもそもない日などに、これらを読む。
 しかし夜になると逆にこれらのものを読みたくなくなる。夜は脳を休めたくなる。そこで出番がどうも「歴史」なのである。
 ある程度前提知識がないと歴史の話もチンプンカンプンだが、慣れれば結構楽しく読める。歴史についても知らないことが多いので、色々学びたい。歴史の良い所は、私にとっては「勉強」という感じがしない点である。そしてその点で童門冬二さんは読み易く分かり易いので、良い。先日まとめてかなりの冊数を買った。
 でこの本を感想なのだが、千利休の思想の深みや精神の透徹に触れることが出来たのは良かった。しかし本自体としてはイマイチ未満である。そもそも「小説」と表題に銘打っているが小説になっていない。第二に、著者の解釈や断定(控えめに言っても願望)が強すぎて、視点が固定されている。第三に余計な情報が多すぎる。千利休本人が一切出て来ない章が2つ3つあり、本題と辛うじてか細い糸でつながっているという程度の話題は飽きさせるものがある。
 上杉鷹山の時もそうだが、著者はどうも「小説」という形が向いていないと思われる。生意気を言うようだが。
・主観と客観が無差別に入り混じる
・史実とフィクションが無差別に入り混じる
・起承転結がない(いきなり終わる)
・箇条書きの挿入など、あまりにも散文的
 など、欠点が多い。
 じゃあ読まなきゃいいじゃないか、という話なのだが、なぜ読むのか自分なりに考えた。
 たまに飲み屋なんかに行くと、隣に座ったおじさんが酒を飲みながら親しく話しかけてくる、なんてことがある。先日もマスターと私に代わる代わる話しかけて上機嫌な人がいて、楽しそうなことだった。結構ずれたことを言っているので、「いや新聞ではそうでしょうけれど事実はですね」などと言いたくなりながら、静かに話を聞いてあげる私。するとそのおじさんは「お客さん(=私)、本当に素敵な方ですね。声も深くて落ち着いているし。いいなあ、こういう話ができるの」なんてことを言っていた。私は割合に、そういう時間が嫌いではない。
 夜、ベッドに入りながら眠りの神が体に舞い降りるまでの間、このような歴史ものの本を読むことは、これに似たような体験であるようで、寝酒に等しい。
「おいおい、それは違うんじゃない」などと心の中で突っ込みつつも、童門冬二さんの話に耳を傾ける。なかなか悪くない一日の締め方なのである。

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