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老残日誌(十二) 胡同、都市の中の小宇宙


胡同、都市の中の小宇宙

王府井や西単の真新しい街路を歩いていると、記憶の淵にモノクロームの影を映すかつての北京は、今から思えば、うらやましいほど文化の多様性に満ちていたことに気づかされる。物資が不足していた時代だった。人々の生活は、その不足をおぎなう工夫に満ちて、質素に輝いていた。永久牌(ブランド名)の自転車で大街を走り、小巷を溜達溜達(散歩=北京方言)すると、そこには時代という時間の積みかさねに育まれた風物や伝統的な慣習、建築物や文物などがあちこちに散見された。北京の街は、かつて、それ自体がひとつの文化とまでいわれた所以である。

この街を東から西に、あるいは西から東へ小刻みに紡いでいるのが「胡同」とよばれる小路である。横町と訳されたりするが、ちょっとニュアンスが異なる。日本と中国の庶民の生活をつつむ空気感のちがいかもしれない。胡同には、炒豆胡同、羊肉胡同、あるいは甘井胡同など市井の人々の生活に根ざした命名が多い。「死胡同」とよばれるものもある。出口のない、行き止まりの袋小路のことを指す。記憶の中の北京には、城内にも城外にも、ほぼ原形に近い胡同が無数に残っていた。四十年以上もむかしのことである。
 
古い北京人は、胡同は牛の毛ほども多い、と自慢する。民国三十(一九四一)年に出版された『北京案内記』(新民印書館発行)は、城内に存在する胡同の数を一千八百、城外に一千四百、あわせて三千二百条と数えている。下って一九八六年の翁立『北京的胡同』(燕山出版社)は、城内外あわせて一千三百十六条とする。

胡同

熊夢祥『析津誌』(元朝古籍、析津は現在の北京付近を指す)によれば、元朝は胡同の道幅を六歩と決めた。一歩は約一・三メートル。したがって七・八メートルとなる。現在の胡同の道幅も、ほぼこれに準じている。人ひとりがやっと通行できるような狭い胡同もある。天橋地区の西永安路北辺にある小喇叭胡同(最狭部五十八センチ)、大柵欄の銭市胡同(同四十四センチ)などがそれで、その名の示すように、まさにラッパの筒のように細い。

東西に走る胡同を南北につないでいるのが「街」とか「大街」とよばれる通りである。胡同から胡同を南から北へ、あるいは北から南へ縦走するときの要路となる。「街」の道幅は十一歩(十四メートル)、「大街」は二十三歩(三十メートル)だった(前掲『析津誌』)。胡同と胡同、あるいは胡同と大街を斜めに結んでいるのは「斜街」で、楊梅竹斜街とか上斜街、王広福斜街などの名称がなじみ深い。そのほか、「巷」とよばれる小路もある。これらは広義で胡同の範疇に含まれることが多い。

歴史のなかの大柵欄は、百年老店(老舗)が林立する一大商埠であった。外省ばかりか、遠く外国からも碧眼の商人がここに集まった。世界の商都で花街を欠くものは稀である。『京都勝跡』(胡玉遠主編、北京燕山出版社)によれば、前門外の大柵欄西街から鉄樹斜街にいたる地区の南辺一帯は、北京では有名な花柳の巷だった。臙脂胡同、百順胡同、韓家胡同、大外廊営胡同、小外廊営胡同、陝西巷、石頭胡同、王広福斜街などがそれで、俗称を八大胡同という。

北京 雑貨店2note

妓館には四種類の等級があった。頭等は清吟小班、二等が茶室、三等は下処で、四等が小下処とよばれた。頭等の清吟小班は、その名前が示すように歌妓のいるところで、本来は清遊する場所だ。戦前から敗戦にかけて北京に暮らした臼井武夫氏は、その名著『北京追想』(東方書店、1981年)で述懐している。

……歌妓たちに齢をたずねると、
「我呀、十六歳(あたし、十六歳よ)」
と答えた。翌年になって、ふたたびたずねると、臆面もなく、やはり十六歳と答えたのは哀れであった……。

頭等での清吟小班の寿命は短く、その間によい旦那を見つけて落籍されないかぎり、容色の衰えとともに、茶室へ身を落とさなければならない。茶室以下は清遊の場ではなかった、とも記している。

散策は大柵欄の北側にまわりこみ、瑠璃廠へと続く路地、楊梅竹斜街をいく。胡同の入り口に、数軒の旅館がある。清朝、民国時代の北京の都市相を克明に描いた陳宗蕃『燕都叢考』(北京古籍出版社、1991年)は、その第三章「外二区各街市」の冒頭でこのあたりの地理に言及し、「旅館最多、交通、鹽業両銀行在其北」と解説している。大柵欄は「百年老店」が林立する一大商埠地であったことは、さきに触れた。商人宿などの宿泊施設が充実していたのである。

瑠璃廠東街から、旧正月の買い物客で雑踏する延寿街に足を踏み入れる。その先には、炭児胡同、耀武胡同、大耳胡同など十数条が、鼠色の壁をうなぎの寝床のように横たえている。胡同に一歩入ると、延寿街の雑踏は消え、水を打ったような静けさにつつまれる。

観音開きの門があった。朱色の扉が午後の斜光をあびて美しい。胡同の内側に展開する庶民の住宅である。皇城の地にある北京の建物は、大小を問わず様式が類型化している。皇帝の係累が棲まう王府も、庶民の住宅も形式が同じなのだ。この場合の形式とは、北京の独特な建築様式である四合院、あるいは三合院のことを指す。三合院とは四合院の変形で、門のすぐ後ろの使用人らが寝起きする南棟を省いた簡易型であった。門の入り口両脇では、獅子のレリーフをほどこした抱鼓石(土台石)が訪問客を威圧する。神社の狛犬のようにも見える抱鼓石のことを、北京方言で「門墩」とよぶ。

胡同2(note)

門は半開きになっているが、奥に屏風のような石の壁があるので、路地から内側を覗くことはできない。かつて北京の街は、ぐるりを城壁で守られていた。それと同じように、四合院もまた壁に囲まれている。門以外に窓はない。重くて厚い門扉を閉じれば、外部の世界と完全に遮断される。四合院に二階はないから、中庭の上空はさえぎるものがない。小宇宙、といえる。

モンゴル人の移動用住居、ゲル(蒙古テント)のことを、にわかに思いだす。たしかゲルも天窓があるだけで、側面に窓を穿っていない。胡同の起源は、元王朝の大都にあった。元朝は、モンゴル人が打ちたてた中国最初の統一国家でもあった。幼少期を中国で送った竹内実氏は、その名著『北京』(文春文庫、1999年)で、民国時代の胡同に暮らした庶民の風景を鮮やかに描写している。

……学校の教師や事務所の職員であれば、中庭はひとつで、垂花門はない。三合院であろう。勤務を終えて帰ってくれば、小宇宙の帝王である。たれにもさまたげられない。中庭の花や金魚を眺め、花に水をやり、子供を抱いて、あやす。絵を描たり、習字をする。夏は葦のすだれで、藤棚のような日除けを張るから、藤椅子をもちだして、夕涼みをする……。

三合院を外から覗くことはできない。内からは、耳を澄ませば通行人の声や物音で、外の様子をうかがうことができた。中庭で金魚を眺め、子供をあやす人の耳に、胡同を流して歩く糖胡蘆売りや、刃物とぎなど物売りの呼び声が、長く、低く尾を引いて、静かにこだましていたに違いない。

Leica M3+M.Rokkor 28mm 1:2.8/X-E1+Super EBC 35mm 1:1.4

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