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素晴らしい作品を前に消えたくなること(2017年8月8日)

素晴らしい作品に触れる時、自分が死んでしまいたい。自分がこの世界から消えてしまいたいと思うのはどうしてなのだろう。物語の主人公のような、まっすぐな、あるいはかけがえのない人生を送っていないという事実から、目を背けたくなるのだろうか。

確かに僕は、世界の命運が丸ごと肩にかかっている人間ではないし、異能を持った選ばれし者たちの一人でもない。

ところで、昔の仏教の流派に、「虫の命を惜しむために、行く道は全て箒で掃いてから歩く僧侶たち」がいたと世界史の教科書にあって、それを思い出すたびに「いや、箒で掃いたことで死んだ虫も絶対いたでしょ」と思ってしまう。

僕らの一挙一動で、生きていたものが死んで、死ぬはずだったものが生きながらえている。それも数えることのできないくらい無数のものについて、しかもそれが延々と常に繰り返されている。

その上で、気まぐれに、目に見える程度の虫を逃したり、殺したりしている自分たちが、同様に何者かのきまぐれで生かされたり殺されたりしていることを思い浮かべる。それを物語のように捉えることが、ひとまずはできてしまう。

この自分の人生が鑑賞に耐えうるほどの面白さがあるはずがないのに、物語の主人公でありたい、主人公でなくてはいられない、という感覚があるのはどうしてなのだろうか。

その欲求を満たすものが、英雄譚であって、醜聞であって、私小説であって、芸能界であって、SNSであって、それでついに主人公になってしまって、その物語のどうしようもなさを隠し通せれば大したもので、そうでないもの、どうひねっても、どう語り口を工夫しても、物語になりえない物語を生きていて、それに耐えられない「主人公」はどうしたらいいのか。自分で物語を終える(あるいはいったん区切りをつける程度なのかもしれないが)ことはできるのかもしれない。が、そもそも自分の物語そのものにそこまでする価値があるとも思えない。

くだらない、つまらない、救いようのない人生を送っているからこそ、幻想を求めているとでもいうのか?それを言ってしまえば、人間社会の中で幻想の途切れる瞬間がいったいどこにあるのだろうか。幻想を求めているのではなくて、これは「都合の良い」幻想を求めているということになるし、なんなら「都合のよい」何かでありさえすればよい。

素晴らしい作品を前にして、それでも自分の人生に価値があるんだと強がることも、何だか間抜けな気がしてしまう。いっそのこと完全に茫然自失として、あれは何だったのだろう、そしてこれ(自分の)は何なんだろう、と考えたくもないことを、考えずにはいられなくなる作品のほうがいい、それを求めている。それを変化のための破壊として、「都合の良い」死の代替品として求めている。それは夢に似ている。つまり他人の夢を見ていることに似ている。では更にそこから目を覚ますとはどういうことなのか。

何のことはない、別の夢を再開するということだ。そこから更に覚めることがあるのだとしたら、それはもうこの夢の中で語ることのできることではないし、語るにしても、それを餌にこの夢の中での立ち振る舞いを制御しうるということ以上の価値はないと思う(価値そのものが夢の中の出来事でもある)。

Evernoteを整理していたら、6年前に書いた文章を見つけた。自分としては珍しく、言いたいことがまとまっている。

この6年で何が変わっただろうか?「主人公であること」と「主体性」をもつこと、そして「物語を『抱える』こと」とを区別できるようには、なってきたと思う。

もう一つは、階層化された幻想は、階層化されていること以上に、非-意味化されており、ここで見せているような諦念や達観は、厳密さについてのかなり早い段階で、成立しえないということに勘づいたということがある。

透明な根を下ろすこと。切望していただけあって、その兆しくらいは見えてきたことは、時間の恩恵、加齢と衰弱に見合って余りある豊穣である。

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