「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」読書感想文
ツイッターがつらい
SNSと呼ばれるWEBアプリの中でも、ツイッターは本当に見るに耐えない様相を呈しているように思われる。
色々な立場の人たちが、主張の正しさにあぐらをかいて、露悪的に他人を侮蔑したり、吐き捨てるような暴言を臆面もなく浴びせ合う様子を、ご丁寧にアルゴリズムが「おすすめ」してくるサービスってなんなんだ。
でも仕事で使うので…せめて自分に合った内容がサジェストされるように、興味のある分野の投稿にはブックマークをつけてNotionにクリップなどしているのだけど、そうするとアルゴリズムも、ある程度は応えてくれて、読んで良かったなと思えるような記事を「おすすめ」してくれる。
本書の元になったWEB連載も、そうした望ましい「おすすめ」の一つとして画面に表示された。
あらすじだけで大ダメージ
連載のはじめに「花束みたいな恋をした」という邦画のことが書いてあり、それだけでウッとなった。かつて、この映画についてのnoteを読み、その要約と解説が的確であったからこそ、実際に作品に触れずともめちゃくちゃに打ちひしがれてしまった経験があったからだ。
なので最初の印象は、「そうだよな。その映画きっかけで、社会に向かって行動したくなる人だって現れるよな」だった記憶がある。
瞬く間にベストセラー
それからしばらくして、今度は同連載が書籍になるというツイートがおすすめされてきた。そりゃ買わなきゃな!来月になってお小遣いがリセットされたら…と眺めていたら、あれよあれよのうちにAmazon総合1位に。これはよっぽど多くの人の、うまく言えない感情を言い当てるタイトルと内容だったのだろう。やっぱ買わなきゃな!
と思っていたら、こんどはkindleのポイント還元が始まったので、これを好機!と奥さんの許しを請うて、今月のうちに購入した。そして月をまたがず読了した。
前提を疑うツールとしての歴史
そもそも、日本人っていつから本を読む・読まない・読めないってなったの?ということを問うときに、歴史抜きでそれを確かめることは難しい。本書はまず明治時代まで遡る。
そして庶民と読書の関係には、身分の撤廃や国富増強の要望などの大きな背景、教養や自己啓発のみならず、見栄や不満を刺激する販促活動やブームがあったことを、駆け足で解説して現在の日本の状況に至る。
ここで重要なのは個別の内容というより、「いまこの私たちの時代には流れがある(そして流れていく)」ということが読者に伝わるということなのだと思う。そんなの当たり前と思う人もいるだろうけど、実はこういうことはある種類の読書体験に固有のニュアンスでもある。
その読書体験とは、つまり「一つ一つの内容に大きく紙面をとり、それを俯瞰するだけの分量のコンテンツを浴びる」という経験のことである。これはファスト化された動画コンテンツなどにはない質量感でもある。
ノイズまみれでノイズのことを言う
意図的に設計された部分のうち、自分にもちゃんと伝わったのは、本書が後半で示す「ノイズ」というものについて、この本そのものもノイズまみれであり、それが楽しいんだよな。と思わせてくれることだった。
それは言わなくてもいいでしょ!とツッコミたくなるような、コメンタリーな部分も微笑ましく読めるのは、以下の書評が指摘する通り、内容全体を通して、特定の誰かをあげつらったり、犯人扱いするような攻撃性を丁寧にトリムしているからなのかもしれない。
で、そのことに関連して思ったことがあるのだけど、以下の内容は本当に完全に俺の勝手に抱いた感想で、本書が主張する内容ではマジで絶対ないです。
悪を想定し攻撃しない
この本はつまり、労働と搾取、階級と格差についての本でもある。と、俺がいまここに書いてみて、この文字列から、とある歴史上の人物を連想する人が、とくに読書家の中には何人かいると思う。
が、この本にはそうした扱いとしてその人物の記述はない(歴史の中の一つのトレンドとしては名前が出てくる)あくまで、私たちの国の、私たちの読書の話を通じて、その自然な結果として労働や搾取についての話になっている。
そして先述の通り、本書はその、とある歴史上の人物と同じスタンスをとらない。つまり「社会には不正をしている悪がいて、彼らを正当に攻撃するために徒党を組む」ことへ、感情的な扇動を行わない。
これが画期的だなと思うし、現代に合っているスタンスだなと感じた。
いくら正しくても
冒頭のツイッターの話に戻ると、どうも世の中には、許されない巨大な悪がいくつもあり、それに猛然と立ち向かうべく声高に叫び立てる人たちがいて、彼らの多くが、その感情的な扇動自体の是非を問わない。
インターネット、SNSがいつのまにかそういう態度を当然のものとみなすようになって久しい。それに対して自分も、これはなにか奇妙なことになっていないか?という気持ちはあるけど、それがどうしてなのか、どうしたらいいのかは、あんまりわからない。
むしろ問題や疑念が浮かんできたとき、その解決法を「わからない」と保留しておくことが選べない人たちがいて、そういう人たちに残された道が「とにかくなにか悪いやつらがいて、彼らの利益と安全と将来を破壊することを正当化すること」なのだろうか?と思ってしまう。
声を上げなければわからない世に出ない問題もある。それはもちろんそうだ。戦うことで獲得できた権利がある。まったくその通りだ。だから小難しい顔をして黙っているくらいなら、常識や配慮なんか抜きで叫べ、戦え、鬨の声を上げろ。うーん…正しい。正しくて、反論できない。反論すると悪の手先扱いされてしまうし、その扱いもまた、正しい。
わからないままのゲリラ
この本は、そういった正しさに与することができない、俺のようなグレーの人間をはねつけることはしなかった。
こういう歴史があって、こういう構造があって、その流れの中に今のこうした状況がある。そこにはこういう問題がある。だからこうなったほうがいいと思う。でも具体的にどうしたらいいかは、「わからない」と著者は、はっきりと言う。
わからない。いったんそこに留まる。
それから、全身全霊で働くことを美徳とするのを、まず私たちが、やめてみることはできないだろうか?ともちかける。著者自身も、そんな急に内面化された労働最適化傾向を抹消したり、脱・過剰労働できるわけではないが、できるかぎりやってみると言う。
だから「あとがき」にあるのは、働きながら(なんとか)本を読めるような、具体的な苦心のテクニックになる。こんな労働体制はおかしい!許せない!いまこそ望ましい労働と社会を自らの手で勝ち取って、その先に余暇としての読書を実現させるのだ!とかではない。
つまりここにあるのは、一種の共犯性、かつ隠密のゲリラ性なのだと思う。問題のある状況に、もちろん抵抗はしているのだけど、正面衝突するのではなく、つまり何かを敵として相手取ったり攻撃するのではなく、こちら側でできることがあると信じること、そして微力なそれが(歴史がそうであったように)社会の流れを変えることになりえる。ということが書かれているように見える。
優しいノイズ
いま私たちの誰もが…なんて言い方は卑怯なので、えーと、ここでは単に、俺個人が、とにかく生きていること自体が後ろめたいのです。と言おう。
個体としての属性、住んでいる国、地域、そうした偶然によって享受している安寧や利益が、不正なものだと言われたら、その通りかもしれない。しかし、「だからお前は身ぐるみ剥がされても、どれだけ詰られても、決して文句を言うな」と言われるなら、それを認めるわけにはいかない。
ある烈しさをもって戦っている人たちに悪とみなされている人たちには、こういう気持ちの人間も含まれているのではなかろうか?ある正しさのために殉じることを人が人に強いるとき、それは何と呼ばれる種類の行為だろうか?
いま、私たちの社会には、こういう問題があり、そこにはこういう背景・経緯がある。さらに、こういう構造があって解決が難しい。だから、どうしたらいいかわからない。でも、
こうなったほうがいい、ということは言える。それは敵味方なく言える。そのために小さくできることは何か?人それぞれにできることは何か?
そんな「悠長なこと」を言うこと。そんなことを語り合う中で生じる、些細なこと、関係のないこと。それは全部ノイズであり、願わくば、優しいノイズであってほしいとも思う。
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