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『人新世の「資本論」』読書感想文

珍しく、読書で感情的になってしまった。それはこの本の内容が、十分に素晴らしいものだと感じたからだ。という前提を、まずはっきりさせておく。

雰囲気で本を買う

地元の宮脇書店が閉店してしまうので、3月のリモート激務の合間に立ち寄った。前から装丁に惹かれていた「マルクス解体」を、内容もロクに確かめないまま購入。

仕事のピークが過ぎて、やっと読み始めたところ、まえがきでそれが「脱成長コミュニズム」についての本だと知る。ふーむそういえば、この著者名、どこかで聞いたことがあるなと思って検索。図書館で一度借りたまま、読めずに返した『人新世の「資本論」』の著者だった。

新書だし、こっちの方が読みやすそうだ(一度読まずに返したくせに)

と、まず前哨戦として『人新世の「資本論」』を読むことにした。恥ずかしながら、たいてい自分の読書は前哨戦のみで終わる。

本当のマルクスvs現代の資本主義

マルクスの名前を聞くだけで、え?社会主義?ソ連?というイメージが自分もあるのだけど、そのように歴史上で大きく採用され拡張され、議論されてきたマルクスの主張は、実は中途半端な段階のものであり、知られざる「その先」が、本人の頭の中にあったことが、近年の研究で明らかになってきたというのだ。

さらには、「その先」の主張こそが、現代の行き過ぎた資本主義と、その正当化・欺瞞を突き崩すものだったのだ!

それはよかった!と思った。確かに現代にいたる資本主義の仕組みが、人工的な希少性を生み出して、本来は別け隔てなく与えられてきた共通財(コモンズ)を毀損して顧みないという解説は、その通りだと感じる。

自らを豊かにするのではなく、豊かになりたいという欠乏を与え続ける構造を正当化する人々。山札を食いつぶすオシリスの天空竜よろしく、有限の地球資源に対して無限の成長を謳うという矛盾が引き起こす、「物質代謝の亀裂」。なるほど資本主義というのは、まったくけしからん!

それに対して、晩年のマルクスがまとめようとしていた「脱成長コミュニズム」という主張は、資本主義上の最適解に異議を申し立て、それ以前に人類が享受していた「ラディカルな潤沢さ」を取り戻すものである。資本主義以前の共同体には、そうした持続可能性へのヒントがあったのだ。ふむふむ。

しかし、この時点で、先の展開に対して嫌な予感がした。

公正と正義を訴えるということ

よしわかった。それでは、現代に蔓延る悪しき資本主義を制御し、人類の歴史を絶えさせることなく、私達の生活を真の意味で豊かにするために必要な「脱成長コミュニズム」の実現に向けて、どのように考え、行動するべきなのか?という段になると、なんだか主張のトーンが変わってくる。

著者は国家権力の強弱と、社会の平等・不平等とで、以下の4象限を提示する。

  • 「気候ファシズム(国家強・不平等)」

  • 「気候毛沢東主義(国家強・平等)」

  • 「野蛮状態(国家弱・不平等)」

  • 「脱成長コミュニズム(国家弱い・平等)」

ここで国家権力による制御というものが、思いのほか脆弱であることが、コロナ禍で明らかになった。という主張を経て、こうなる。

そして、こう言わねばならない。「コミュニズムか、野蛮か」、選択肢は二つで単純だ!

第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う

お?ま、まあそれはそうなんだろうけど…

 今、気候危機をきっかけとして、ヨーロッパ中心主義を改め、グローバル・サウスから学ぼうとする新しい運動が出てきている。そう、まさに晩年のマルクスが願っていたように。
 そして、このコミュニズムの萌芽は、気候変動の危機の深まりとともに、より野心的になり、二一世紀の環境革命として花開く可能性を秘めている。

第七章 脱成長コミュニズムが世界を救う

うん?

 しかし、ここに「三・五%」という数字がある。なんの数字かわかるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「三・五%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。
(中略)
 これまで私たちが無関心だったせいで、一%の富裕層・エリート層が好き勝手にルールを変えて、自分たちの価値観に合わせて、社会の仕組みや利害を作り上げてしまった。
 けれども、そろそろ、はっきりとしたNOを突きつけるときだ。冷笑主義を捨て、九九%の力を見せつけてやろう。そのためには、まず三・五%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である。その動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない。

おわりに 歴史を終わらせないために

なるほど〜、主義主張の内容とはまた別の、こちらの「マルクス」については、特に客観視も批判もされないままでいくんですね。と思ってしまった。

感情に訴えかけるという侮蔑

正しくあらんとすること。公正を実現せんとすること。大いに素晴らしく、結構なことだ。しかし、そこに扇動と感情の激化をふんだんに含ませることが、どういうメタメッセージになるのか?ということについて、どうも考えてしまう。

もっと簡単に言うと、正義と公正という感情で人を動かそうとしていること自体への疑いである。

仮に、著者の主張が天地人に通じ、資本主義の是正と民主主義の刷新、脱炭素社会の実現による、人類の存続が実現したとしよう。「間違ったマルクス」への誤解も解けて、限られた資源を希少化したり、独占することの愚が共通の認識になったとしよう。

しかし、その過程において、声高に一致団結し、世界を強く「正しく」動かすための動力として、単にそのための一粒・一滴として人間個人を取り扱ったのなら、

それは資本主義の裏に潜んでいた、真に悪しきもの、人間を人間そのものとして見なさないという、根源的な阻害に加担することになるのではないか?打倒すべき敵そのものに成り代わり、今ある形とは別のやり方で、人類の存続を脅かすことになるのではないか?

「まず三・五%が動き出し、九九%の力を見せつけてやろう」とのことだけど、まったく本当に、そういうところに表れているものを自分で感じ取ってくれ、と思ってしまうし、

新しい正義と公正が対立すべき悪、いま世界の富を掌握する欲深〜い人たちが、果たしてそのような私達の人間個体存在への普遍的な軽蔑を、巧みに操ること抜きに、この地位を確立させているはずがないのではないか?

まああんまり気にしないでほしい

とはいえ、こんな風に、学のない地方住みのオッサンが思いつくようなことを、専門家や活動家の皆さんが検討していないはずもないのだろう。

世界が、わかりやすく共有しやすい怒りの感情でもって「加速」しなければ、気候正義と公正の実現には到底間に合わない。という判断も大いにあるのだろう。

だけど、妙な偏屈さから「三・五%」に与することができない人間として、団結や連帯とは別の経路でもって、気候変動に対して働きかけたいと思う。

世の中のおかしさを感じている。自分が微力だが無力ではないことも知っている。でも、だからといって、絶対に他人と足並み揃えて、束にならなければ世界と社会に、十分に働きかけられないとは思わない。これが間違った考え方なら喜んで訂正されたいし、間違ったままで、たった一人分だけ、世の中のつらさとしんどさを和らげるのでもいい。

その方が「三・五%」とは別のところで、あるべき世界の実現に寄与できるかもしれない。そういう逆張りが性に合っている人間がいるというだけだから、まあ…あんまり気にしないでください。

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