見出し画像

落合・吉薗秘史シリーズを読み終えた

遂に落合・吉薗よしぞの秘史シリーズ(全12巻)を読み終えました。
元々歴史にも詳しくないし、読んでもすぐに忘れてしまうのですが、何となくどんな人間ドラマだったのか、その印象が残っています。読後は吉薗周蔵さんにお疲れ様でした・・・と心の中で呟きました(著者の落合さんにも)。ともすれば吉薗周蔵手記自体が創作と言われたりもしているそうですが、その真偽は私には分かりません。ただ心配になったのは、最後は吉薗周蔵も人間不信に陥った手記ばかりになりがちだったことで「國體こくたいへの奉公って一体何なのだろう?」と考えさせられました(著者の落合さんは「そこが私との違い、私は人間不信にはならない」と強気ですw)。

貴志さん おられなくなり、
世の中も 悪くなるばかり、
誰もが 自分本位となり、やがては 自らの國を
民衆は 自らの手足を喰うのであろう。
もう日記は終りとす。

吉薗周蔵手記の末尾(昭和14年=1939年)
落合・吉薗秘史[12]より
(注)貴志さん=貴志弥次郎(彌次郎)のこと

吉薗周蔵は1964年(昭和39年)に亡くなったとされ、戦後の約20年間、晩年は人間不信から回復して穏やかに過ごされたのでしょうか。

何れにせよワンワールド國體こくたい(国体ではなく旧字体で落合さん独自の用語)とは、世界を股にかけた壮大な見えない組織の様なもので(大東社だいとうしゃを更に総括するような存在?)、崇高な目的があるとはいえ?濡れ衣を着せたり、◯ってしまうことなど、衝撃的なことがサラっと書かれてあり、平和ボケした感覚からしたら恐ろしい存在にも見えます。佐伯祐三も最期は哀れでした。それは全く綺麗事ではない極めて人間くさい/人間らしいドラマでした。私が言う資格はないですが、吉薗周蔵しかり堤哲長しかり表に名を残さずにこれだけ偉大な事業をされているのに驚きます。

一次資料に辿り着けない、あるいは、辿り着いても自分では解釈できない私の様な凡人の読者には、最終的な真偽を自分で判断する能力はありません。博識と類まれなる洞察力から導き出されると一体どの様なモノになるのか(芸術作品)をただ鑑賞し受け取るだけ、それすら値しない器かもしれません。何れにしても確認の取れない秘史がベースになっているので一般人には知りえませんし判断の仕様がありませんから、源流を辿れない以上これからも活かしていく事は難しいかなと思います。落合さんですら吉薗周蔵手記のいわゆる「別紙記載」の全ては見せてもらえない。他にも古史古伝・口伝はたくさんありますが、乱立するばかりで同じ様相を呈してしまいます。
最終的には、その人から見えるものしか見えませんね・・・。

難解すぎるのか突拍子もないように見えるのか、國體史観の正統な後継者は果たして現れているのでしょうか?ワンワールド國體が本当にあるなら、史観を持とうが持たまいが、これからもその役割は脈々と続くでしょう。
合掌。

こちらを見ている吉薗周蔵の想像図(マンガ)
を何となく描いてみたくなったので(笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?