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もつけとして生きられるか、否か/2024年1月、青森。

仕事も心も体も落ち着いていない1月半ば、青森を旅した。きっかけは、福嶋悠貴さんが親しくしている青森在住の木版画家・ふるさかはるかさんに会いに行くというので同行したというもの。ふるさかさんだけではなく、ふるさかさんが昨年出版した素晴らしい書籍「ことづての声/ソマの舟」(信陽堂)にも登場する山中泰彦さんにお会いするということも大きな目的だった。山中さんはたぶん自他共に認める“もつけ(津軽弁で、熱中する人の意)”であったのだが・・その話はもう少し後に。

比較的暖冬続く高崎駅を出て、大宮を経由して東北新幹線。岩手県を通過中も雪の跡はまばらで、北へ向かっている実感がない・・などと思っていたら、青森に入った頃には吹雪。新青森駅を出ると空は一面まっしろで、粒の大きな雪がめいいっぱい斜めに吹き流れてくる。駅で、ふるさかさんとそのパートナーである中川浩佑さんが待っていてくれて、その車に乗り込んだ。吹雪の中大鰐町へ向かう。時に前方100メートルの車の姿が見えない。本州北端へ来た、という天気だった。

最初に訪れたのが、山中泰彦さんの漆工房「杣」。山中さんは背が高く、白い顎鬚を蓄えつつも目がくりくりしていて若々しい。何のてらいもなく工房内を案内してくれた。青森県には弘前を主として作られている「津軽塗り」と呼ばれる伝統工芸品がある。バカなほど手間をかけて塗っては研ぐを繰り返すことから通称「バカ塗り」とも呼ばれ、昨年、僕が関わっている伊参スタジオ映画祭にも来場してくれたことがある鶴岡慧子監督により『バカ塗りの娘』という映画も作られた。通常、漆器はお椀などを彫る職人(木地師)と漆を塗る職人(塗師)の分業で行われるものと思うが、大鰐町の山中さんはその両方を行い、それを学ぶお弟子さんも工房に入っている。

「道具は良いものを使う」という山中さんが見せてくれたのは、人毛を使った筆(動物の毛よりも細く、目が立ちにくいそう)や、独自の模様をつけるためのくじらの髭など。乾かされている朱や黒の塗り椀や酒器は、どことない懐かしさと共に素朴さや強さを感じさせた。今や食器は100円ショップでも買える状況にあるが、触ることで手が喜び、唇に触れることで食べ物の味すらも変わってくる、そんな魅力が漆器にはある(その後、ふるさかさんの家で山中さんの椀や匙を使わせていただいた)。

工房に並ぶ漆器

工房を出て再びの雪の中。山へ登る入口付近に、「サンスケ」が祭られている小さな社があった。サンスケとは、この地域で山仕事をする人々が山に入る際、12人だと山の神の怒りに触れるということで、登山前にこの場所で1体木彫りの人形を彫り、13人目に見立てるというもの。そのような教えが今に続いていることもすごいが、長細い木片にまあるい頭と首が彫られたたくさんのサンスケが詰め込まれた様子は、さながら村人の寄り合いのようであった。

山仕事。山中さんはまた、大鰐町猟友会の取りまとめを行っているマタギ(猟師)でもある。今回はさすがに猟を見せてもらうことはなかったが、1発の弾で2頭の熊を射抜く話、獣の解体の話などはどれもリアルで、動物を殺したら可哀そうとか、畑を荒らす動物が憎いとかそういう感情を越えて、僕には「熊や猪や鹿がごく身近にいて、そこで暮らしていくためには自然なこととしての狩猟がある」という内容に聞こえた。これはという若者を猟友会に引っ張ってきてもいるそうだが、近年希望者は多いようで、その事務処理が大変なのさと山中さんは笑っていた。木地師、塗師、マタギ、山中さんはそれ以外にも夏はトマト栽培を行う農家にもなる。「百姓」という言葉は百の事ができるからという話を聞いたことがあるが、大型バイクも多数所有し機械にも強い山中さんは、やれることを細分化していけば百じゃ足りない人なのだと思う。

ふるさかさんもまた、作家活動を自然に行うために青森へ来た人のように思う。大阪に生まれ育ち木版画を中心に美術活動を行ってきたふるさかさん。フィンランドやノルウェーでの滞在制作も行い、自然にあるものを素材としたりモチーフとする作品を作り続ける中で、都市・大阪で活動することに違和感を感じ始めたのだという。青森へは2017年頃から南津軽等で取材をはじめ、今は長期滞在中。書籍「ことづての声/ソマの舟」は224ページにおよぶ大作で、木の木目を生かした温かみのある、けれど山が持つ怖さも併せ持ったかのような版画作品と、取材を続けてきた山中さん、ほか塗師や鍛冶屋たちの言葉と、自身で撮影したピンホールカメラの写真等とを絶妙なバランスで合わせた本。僕は全て読み切れていないが、その一冊で伝わることは多面的であり豊かであると思う。

作品集『ことづての声/ソマの舟』紹介

また、ふるさかさんは大の温泉好き、かつ食べるの大好きということで、身長をはるかに超える八甲田山の雪の壁の間を走って向かう「酸ヶ湯温泉」や彼女の自宅近くの地元民に愛される温泉などに連れていってもらい、青森ならではの美味しいものもたくさん作って食べた(新鮮な真鱈の身と白子とあん肝の鍋/生ホッケ塩焼き/黒なまこ/ぷりぷり生ほたての刺身/あん肝と身を和えたやつ/熊シチュー/あら汁などなど)。行った飲食店は少なく、むしろ食材を買うことが多かったので、青森にある「青森菜センター」や五所川原の「エルム」というショッピングセンターに入っている魚屋には感動した。扱っている鮮魚は安い上にどれも「今まで食べた中で一番うまい!」と思わせる品々であったのだから。

青森魚菜センター

書籍「ことづての声/ソマの舟」は、山や地方での暮らしに関心がある人や、自然が好きな人たちにもっとたくさん読まれて欲しいし、青森で根を伸ばすふるさかさんが今後どのような作品を作るのかも期待したい。

山中さんには、地元のヒバやスギを家具や食器に加工する「わにもっこ」や、過去にはサントリー地域文化賞を受賞した「ひばのくに迎賓館」にも連れて行ってもらった。その立ち上げや持続に関わった山中さんはとにかく楽しそうにそれらを説明してくれる。今は残念ながら閉じられている迎賓館には弘前出身の画家・奈良美智氏の絵もごく自然に飾られ、ここには他にも多くの画家や文化人が集ったのだという。同じく弘前出身の寺山修司氏が率いた「劇団天井桟敷」メンバーもここでよく酒を飲んでは泊まったそうで、東京の模造ではない、青森独自の文化の渦がここにあったのだと思う。

青森市のねぶたは全国的に有名だが、五所川原には「立佞武多(たちねぷた)」と呼ばれる祭りが行われている。そのねぷたが保存されている博物館へも連れて行ってもらった。入ってすぐに、口をぽかーんと開けて見上げてしまう巨大なねぷたが現れる。エレベーターで6階へ上がり、やっと頭と同じ高さになるのだからその大きさはとてつもない。夏には巨大な3体のねぷたが町を移動するのだという。ひと時、電線が引かれたことなどにより中止されていたねぷたであるが、もう一度やりたいと願った人々の情熱が広がって祭りの再開に繋がったのだという。山中さんが「もつけだろ」と言い放つ。再度書くが、もつけとは「熱中する人」という意味である。ねぷたに限った話ではなく、青森にいる人は周囲の雪の冷たさに反して、情熱的な人、もつけな人が多い気がする。それは「何があっても俺たちはここで生きていけるぜ」という自信でもあるように思えた。そしてここまで読んでくださった方は同意いただけると思うが、山中さんこそ大のもつけである。

立佞武多の館 ふるさかさんと山中さん

自分が仕事も心も体も落ち着いていなかった、と冒頭に書いたが、山中さんの車の助手席に座り色々話をする中でふと、自分が最近考えていることを口に出してみた。「好きなことを仕事にできている気はします。でもそれにお金がついてくるかは別。山中さんはお金についてどう思っていますか?」と。どんな精神論が語られるかと思ったら「工芸で食ってくってなかなかできないじゃん。そのために農家で、1年食っていける収入を得る」という、極めて現実的な答えが返ってきた。「だからうちの(木地師の)弟子たちにも農業を教えている」と。

伝統工芸は、僕の生まれ育った中之条町にもあり、けれど最後の木地師も高齢を理由に工房を閉めてしまった。伝統が失われるのはもったいないと口に出す人は多いが、実際やる人が現れない限り、それは永遠に失われてしまう。確かなバトンを繋ぐ必要があるのだ。また、工芸に限らず、僕らが行っている仕事や活動も、現実的・主体的な継続を、情熱をもって行うことは容易ではない。でも。青森のもつけ達はそれを義務ではなく「情熱を持って楽しそう」に行っている。

数日の青森旅を経て、もつけとして生きること、について考えた。容易に真似できることではないが、その方向でこの先を進んでみたい。

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