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自分のことと、木彫りの卵みたいなイベント

高校の頃だったと思う。
学校の帰り道に、「ご自由にお持ちください」と道端に木っ端が入った箱が置かれていた。
ある日、思いつきにその箱から、ひとつもらって帰った。

ちいさな頃は、祖父の農具やら工具やらが雑多に押し込まれた埃臭くて薄暗い倉庫が好きで、保育園から帰ったら入り浸っていた。
古い業務用のトマトソース用の缶に、錆びてほんのり曲がったり曲がってなかったりな釘がいっぱい入っていて、それを倉庫の柱に打ち付けて遊んでいた。
そうしたら柱に打ち付けられてはかなわんと思ったのか、祖父だか父だかが子供の太もも程度の丸太をくれた。
それに思う存分打ち付けるように、とのことだった。
それからは、釘を打つことだけじゃなく、その丸太にノコをひいたりしたりもした。

そんな幼少期だったので、高校になっても木っ端とかそういうものが好きだったのだと思う。

カバンに入れて持ち帰った木っ端を、晩御飯のあと自室で削り始めた。
小学校で使った小刀をつかったと思う。
思いのほか硬い木材で、ちょこっとずつしか削れない。
それでもなにが面白かったのかと自分でもわからないが、毎日すこしずつ削っていった。
角を削り、どんどんとまるくする。
それは、なぜかなんとなく卵型になった。
卵型になったから、冷蔵庫に入れておこうと思ったのだが、ただの木の卵じゃ誰も驚かないだろう。
よし。顔を彫ろう。
そんなわけで、目と鼻と口(唇)を彫りこんだ。
それだけでは物足りず、クラスメイトにもらったハンダゴテで黒目と鼻の穴、唇に焼き色をつける。
なんとも気持ちの悪い木の卵が完成した。

それを冷蔵庫の卵たちと一緒に並べて冷やしておくわけだ。
見つけたときに、母がなんと言ったかは覚えていない。
だが、そのあとに言われたことは覚えている。
「あんたこれ、もう10個つくったらアートだね」
いやいや、これ木も硬いし、そんなにたくさんは作れんなあと返すと、
「アートは根性だからね」ときた。

母は美術短大を出たので、まあきっとそれなりに母なりの経験則からの言葉だったのだろう。

そうか、アートは根性なのか。
なんとなく、そのときはそうなのかと思った。

そして時は流れ流れて、仕事でものづくりをする人たちと関わることになった。
木を削ったり、描いたり、縫ったり、切ったり、叩いたりして、いろんなものをこしらえている。
そんな人たちと関わる中で、「継続することのすごさ」を感じるようになった。
自分も、参加者側として出展をしたことが一度だけあるが、次に出ることはなかった。
一度で燃え尽きた。
たのしかったからまた出たい、と思っていたが作り続けられなかった。
また次になにかを作ろうと思える情熱が、散った。

そんな自分のことがあるから、作り続けている人のすごさを感じるのかもしれない。
継続することが苦手で、興味が飛び跳ねるように変化していく自分からしたら、つづけていることは狂気に感じる。

ここんとこ思っているのは、情熱とか継続できる忍耐力とか、丁寧に細部まで作り込んでいくみたいな感じとかって、狂ってるってことか?ということで。
で、それを考えていると、木彫りの卵が出てきて、その先に母に言われた言葉が降ってくる。

誰から理解されなくても、ずっとずっと好きでつくっていられること。つづけられること。
そういうのを「Crazy」だとか言うんじゃないだろうか。
そうやってずっと好きでいられるものを持っている人が、自分は好きなんだ。
だからそういう人ともっと知り合いたいし、そういう人を好きな人とつなげたいんだ。

偏愛性のある、人に伝わりにくい好きが、届くような。
まるで狂気のような情熱が、そこかしこで燃え上がるような。

自分が掘り続けられる、つくりつづけてしまう木彫りの卵がずっと欲しかった。そうやってものをつくりつづけ、生み出し続けている作り手の人を見ていてひたすらに羨ましかった。憧れた。
誰のどんな話を聞いても、とにかく楽しくて。
なんか自分は、好きがある人をある種アイドル的に崇拝しているのかもしれない。
でも、こんな自分のような人間が、その人たちへ伝えられる情熱もある。それは、あなたの表現が好きだということ。
もうこりゃマジで推し活みたいなもんだな。

自分の推し活の一環として、狂気のような偏愛性あふれた場所をつくるのだ。
(誰のためじゃなくってまあ、自分のためにですが)

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