街で一番名前を知られた彼と、一番知られてない彼女

その海沿いの街で、彼は一番有名な少年だった。

父親は街の名士で、容姿もよい。趣味の写真はSNSで人気を博し、フォロワーは万を超える。街を歩けば、誰かが彼に声をかける。

彼は他人の悪口を言わない。それは信念ではなく、誰かの悪口を言うほど人に深く興味がないから。
彼が撮る写真は、海を背に楽しそうに笑う女の子。バズるポイントを抑えた、どこかで見たことのあるような写真。

人生はこのまま上手くいくだろうと思っているし、人の不幸はドラマの中だけの出来事だと思っている。とても無意識に。

「ごめん、急に行けなくなった!」

彼は海辺でカブに腰掛け、SNSのDMを開く。
午後に撮影するはずだった女の子からのドタキャンだった。
「気にしないで!」条件反射で返信する。

写真でも撮って帰るかと、四角に囲んだ指で周囲を見渡す。

指がふと止まる。そういえば、あんなところに山なんてあったっけ。
地元で行楽地として知られる山の奥に、名前もない山。

いつも海ばかり撮っているが、たまには山頂の景色を撮るのもいいかもしれない。
気まぐれで麓までカブを走らせる。
「立ち入り禁止」の錆びたチェーンを外して、進む。

人の気配は一切なく、管理はされていない。
草や木の枝に引っかかりながら、うっすらとした道のようなものを走る。
途中から車両は通れない道となり、少し開けた場所にカブを停めて歩く。

山頂は、想像していたよりずっと遠い。
夕方にようやく着いた。夕陽に照らされた街と海は、息を呑むほど綺麗で、夢中でシャッターを切った。

夕陽も沈む頃に、帰ろうと来た道を戻り、ようやく気がつく。

あたりが一気に暗くなってきた。街灯はあるはずもない。
スマホの充電は残り数%で、灯りを照らすほど残っていない。

一歩足を踏み外せば、崖下に落ちる危険もある道。

季節は冬のはじまり。寒い地域ではないが、山の夜ともなると息も白い。
薄めのダウンは山に適したものではない。

心臓がばくばくする。いよいよ真っ暗になりかけてきたあたりで、ぼんやりとした灯りに気づいた。

家だった。崖と崖の中間のような場所に、おとぎ話のように、小さな木製の家がぽつんとある。

ドアをノックする。返事はない。
「すみません!」大きな声で叫ぶ。返事はない。
「本当に申し訳ないのですが、山を降りられなくて。一晩泊めていただけませんか」返事はない。繰り返す。

扉が開いた。同じ歳くらいの、黒髪の少女が出て来た。
ナイフを突き出し、こちらを睨みつけている。
しばらく風呂に入っていないのか、野生動物のような臭いが鼻につく。

彼は激しく動揺した。
「怪しい者ではないんです、僕の名前は……」
「なんでこの山に来たの?」鋭い声で彼女が被せた。
「山頂で、夕陽を撮っていて」

さらに強く睨まれた。
「そんな服装で、山の知識もなく、ここまで?」

彼女はひどく苛立ちながら言った。
「物置きなら泊めるわ。死なれても気分悪いから。
 ただ、私がここに住んでいるって誰にも言わないことを約束して。
 誰かに言ったら、殺すから」

静かだが、本気で殺しそうな迫力だった。


わずかに電波が届く場所で、両親に友人の家に泊まると送信すると、スマホの電源は尽きた。

彼が真っ暗な物置に入ると、彼女は外側から南京錠をかける。
「私が安心して眠れないから。朝に開けにくる」
彼女は家に戻っていった。

薄い寝袋を貸してもらったが、カビ臭い。床から底冷えしてくる。腹も減る。スマホがなければやることもない。
一睡もできないだろうなと思いながら、いつのまにか眠りに落ちた。

「コケコッコーーーー!」
鶏のけたたましい叫び声で目が覚める。
ひび割れた窓から覗く外はまだ暗い。

2時間ほど経過し、朝日が登ってきた頃だった。
窓から差し込む光に、
物置に無造作に置かれた1枚の絵が照らされた。


彼はその光景をみて、涙を流した。

なぜ、泣いているのか分からない。ただ、こんなに絵に心打たれたのは初めてだった。


突然物置の扉が開き、光を背負って彼女が現れた。
片手にナイフを持ったまま、お椀が差し出される。
お湯に山菜やキノコが浮かんだ薄味のスープが、冷えきった身に染み渡る。

「これ、美味しい。すごく美味しい。ありがとう」
「いいから、飲んだらすぐに出て行って」

「なぜここに住んでるの?」「他に住む場所がない」
「親は?」「いない」一問一答が続く。

「君がここにいることを、誰か知ってるの?」
「知らないわよ。私そのものを、知る人なんてもういない。
 たまたま逃げたこの山で、この家の主人に山の生き方を教わった。
 主が死んでからは、もう私のことなんて誰も知らない。」
彼女は、盛り土になった墓のような場所を指差した。

「言っておくけど、私は殺してないわよ?」
彼女の手は微かに震えていた。
人と話すこと自体久しぶりなのだろう。

次々と疑問は浮かんだが、聞いてはいけない気がして飲み込む。
だけどどうしても、これだけは確かめたい。

絵を指差しながら、彼は聞いた。
「この絵は、君が描いたの?」

大きな間があった。

「そう」顔を真っ赤にして、彼女が声を絞り出す。
「そうなんだ!僕は絵を見て、すごく感動して、」
言葉で全然上手く伝えられない。

「今も描いているの?」
「描いていないわよ。」彼女は顔をさらに真くして、俯いた。

沈黙が続く。気まずさを打ち消すように、彼は喋る。
「僕は、写真を撮るんだ。SNSにもアップしてるけど、今スマホの電源切れて……。そうだカメラのデータなら、ほら!」

デジタルカメラの画面に、いくつかの写真を写す。
「そう……」彼女は冷静さを取り戻し、酷くつまらなさそうに呟いた。

彼は厳選したSNSの写真を見せられなかったことを後悔した。


家の周りには鶏小屋や畑があった。
自給自足なのだろうか?

荷物をまとめて、彼は頭をさげる。
「あの、泊めてもらった御礼がしたくて」
連絡先を知りたいが、ある訳がない。
「また、来ます!」

彼女はびくっと、そのまま黙って立っていた。

家に帰ると、両親にこっぴどく怒られた。
スマホの電源を入れた途端、たくさんの通知が流れ込んだ。

昨日からのことが、全て夢のようだ。
ただあの絵と、彼女の存在が、強い光の残像のように
目をつぶっても、頭に残って離れない。


次の週末。彼は友達の先約を断り、彼女の家に向かう。
早起きし、服装も山登り用のお洒落なものを新調した。
ドアをノックすると、彼女が出て来た。

前回のような臭いはしない。沢の近くにドラム缶が置いてある。
入浴後か?鉢合わせなくて本当によかった。

「先日の御礼。母さんにお弁当を作ってもらって。一緒に食べよう。」
複雑な表情を見せる彼女に、彼は能天気に言う。
「あ、もちろんゴミは全部持ち帰るから!」

外にあったテーブルに、彼はお弁当を広げる。椅子はちょうど2つある。

「どう?」「美味しいけど……」
「でしょ!母さんは料理が上手いんだよ!」
押し付けがましく彼は続ける。

「僕はコーヒーを淹れるのが得意だから、持って来たよ!
 山で飲んだら美味しいだろうなと思って。」

豆、ミル、ドリッパー、ペットボトルの水……バックパックから、どんどん取り出す。

彼女は苛立ちを隠さずに言った。
「遭難したばかりの人間が、そんな大荷物で」
「出来立てを楽しんで欲しかったんだよ!」
「水なら沢の水があるんだけど」
「それはそうか、今度はそうするよ!」

今度があるのか?彼女は深くため息をついた。


それからも繰り返し、彼は彼女の家へ行った。

家には入れてもらえないが、追い返されることはなかった。
一度カメラを向けたら、すごい剣幕で怒られた。
窓から、家の中に物置にあったはずの絵が置かれているのが見えた。
「あの絵だ!」彼は叫び、彼女はまた顔を真っ赤にした。


季節外れの台風が、海沿いの街に近づいた。
明日の午後には、海側・山側いずれにも避難警報が出る見込みだった。

彼に不安がよぎる。
彼女は、どこに避難するんだ?
あの家にラジオなんてあったか?


翌朝、日の出と共にこっそり家を抜け出し。
雨音はどんどん強くなり、
山道はいつもの倍の時間がかかった。


彼女は空を見上げながら、鶏小屋の扉を開け
鶏を半ば強引に連れ出して逃していた。
「今までありがとう」

足音がして振り向くと、彼がいた。
彼女は大きく目を見開いた。
「なんで……こんな日に……」

彼は手を差し出した。「僕が何とかするから、一緒に避難しよう」
「もうどうでもいいの、私は。
 早く山を降りて、本当に危ないのここは」

「僕が嫌なんだよ!」
投げやりな彼女を、必死に説得しようとする。
「ここを出たら絵を描いてよ。
 もう一度君の絵が見たい。絵の具は僕がバイト代で買うか一一」

「いい加減にしてよ!」
雨音に負けない大声で、彼女が叫んだ。

「絵を描けなんて、簡単に言うな!!
 お前がずっと絵の具代を出すのか?私の人生に責任を持つのか?
 絵を描き続ける先に、どれだけ地獄が待ってるか分かってんのか」

びっくりした。彼は写真を辛いと思ったことなどなかった。

「人なんて、もう一生関わりたくない
 同情されるのも最悪、施しを受けるのも最悪、
 あなたの薄っぺらさには反吐がでる。」

「なのに……人のご飯が美味しく感じる
 あんたみたいなのすら、人と関わることに
 喜びを感じる。そんな自分が一番醜い」

もう一度大声を出す。
「もう出ていって。ここから出てけ!!二度と来るな!!」

ドン!
大きな音と衝撃がしたその刹那、

彼女に崖から突き飛ばされた。
土石流が彼女を飲み込んでいく。

彼女に手を伸ばすのに、届かない。

ああ、永遠に続くと思っていた日常は
こんなにもある日突然に、
ぶつりと、途切れるものなのか。

目をさますと病院のベッドだった。
両親、友人に囲まれている。

母親は泣き崩れた。
「3日意識がなかったのよ……!
 GPSを頼りに、街中で必死に探して……
 助かったのが奇跡よ」

全身が痛い。頭にもやがかかっている。「彼女は……?」

「何の話?あなた1人よ」

そんな、嘘だ、まさか、

「いたはずなんだ、一緒に、もう1人……」
「誰と一緒にいたのよ。あの山は、誰も住んでないのよ」

彼女は誰?僕は彼女の名前すら知らない。
聞いたら彼女を傷つけそうで、聞けなかった。

「嫌、嫌だ!急いで探してくれ!!
 まだ生きてるかもしれないんだ!頼む!早く!!」

今にして思えば、
彼女があの場所に住み続けていること自体、
ゆるやかな自殺だったのかもしれない。

誰かの力で終わらせられるのを、
ずっと待っていたのかの、ように。



彼はずっと彼女の存在を伝え続けたが、
彼の記憶以外に、彼女の存在を証明できるものは何1つない。
全員が、頭を打った彼の記憶の混濁と思い込んだ。

土砂は崩れたまま、
山には強固な立ち入り禁止のバリケードが貼られた。

彼女は本当にいたのだろうか。いたはずだ。
でなければ僕が生きてるはずがない。
僕は確かにあの絵を見て、受け取ったんだ。

こんなに苦しいのなら、出会わなければよかった。
だけど世界で唯一彼女の存在を知っている僕が
彼女との出会いに何の意味も見出さなかったら、
彼女は一体何のために生まれたんだ。

あの絵のようなものを
僕は残さなきゃいけないんだ。


彼は狂ったように写真を撮り続けたが、
今までのものとは全く違う、重く暗いものだった。
SNSの更新は止まったまま、
美大を目指して失敗し、浪人も決まった。

「彼は、事故で変わっちゃったな」
友人は口々に言い
腫れ物を扱うように、彼に声をかける人も減っていた。


海辺で、ファインダー越しに山を覗く。
形が変わってしまってる。

「よ」彼のかつての友人が、彼に声をかけた。
病室にいた1人だ。

「久しぶりだな。元気か?元気じゃないか」
「ああ、お陰様でな……」彼はファインダーから目を離さずに、答える。
「写真、続けてるんだな。学校に掲示されてるの見たよ。楽しいか?」
「いや、楽しくない。苦しい。苦しいことしかない」


友人はぽつりと言った。
「でもさ、俺、今のお前の絵の方が好きだよ。」

彼は、ファインダーから視線を外して友人を見た。

「俺、写真のことは詳しくないけど
 前のお前の写真には一切興味なかったんだ。
 それが先日、今のお前の写真の前に立ったとき
 その場で足が止まって、ああ、面白くなったなって思ったんだ。
 お前らしさを残そうとしている跡が見える。」

友人は言った。
「写真、そのまま続けてよ、ヒロト」

彼は大粒の涙を流して、言った。
「ありがとう。嬉しい、本当に、嬉しい。
 写真を人から褒められて、今、初めて、こんなに嬉しい。」

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