牛の幸せは誰が決める?
私なんちゃってベジタリアン。
固形の肉を食べない。鶏も豚も牛も。
ミンチになったハンバーグも食べれない。ミートソースパスタもほとんど食べれない。加工したハムやベーコンも苦手。
牛乳は体質的に合わないから飲めない。卵は火を通せば食べれる。大好物であり肉を食べない私の貴重なタンパク源だ。
魚は生の魚があまり食べられない。火を通していたとしても自分から積極的に魚は食べない。甲殻類や貝類は比較的好きな方。地元に帰ってきてから魚が美味しいので、美味しく調理してくれる飲食店で出している刺身なら食べられるようにはなった。
そんな超偏食なわたし。
小学校5年生くらいの時に自宅で祖父が鶏を捌いていた。羽根のついた鳥が鶏になる瞬間を見たその日、食卓には大好きな唐揚げが並んだ。
その日を境にもう15年くらい肉が食べられない。
美味しそうだなあと思う、いい匂いだなあとも思う、だけどいざ固形の肉を食べてみると、当時の記憶が蘇ってしまい喉を通ることがない。
ゴールデンウィークの真ん中の日、小さな牧場に行った。県内で唯一牛を育てて牛乳の販売までを一貫して行っている牧場らしい。
その前にラーメンを食べていて、その日は暑かったので「ジェラートでも食べたいね」なんて話をしていたら、この牧場に併設されているカフェで搾りたての牛乳で作ったソフトクリームが食べられると知って、やって来た。
店内は帰省客の家族連れや観光客で賑わっている。メニューも豊富でどれも魅力的。私はこれと言ってピンとくるメニューがなかったので1番右の牛乳ソフトを頼んだ。何口か食べたら案の定お腹が痛くなったので、一緒にいた友人に全部食べてもらった。
余計なものが入っていないシンプルで美味しいソフトクリームだった。
食べ終えて帰ろうとしたら、どうやら牛舎を見学できるらしい。開放はされているもの、ほとんどのお客さんはお目当てのカフェに立ち寄ったらすぐに帰っている。わたしたちは牛舎に立ち寄った。
そこには、体当たりされたら人間が一瞬で潰されそうなくらい大きくて立派な牛がズラーっと並ぶ。お昼寝の時間だったみたい。全員決められたゾーンで横になっている。
寝ているのに人間がまじまじと観察するもんで、何頭か敏感な牛の目が覚める。
座っていても大きい体は立ち上がるとより迫力を増し、その姿に圧倒される。
だけど牛はそこから動けない。
首には上下はできるけど、それ以上動けないように、大きな大きな鎖がついている。
そうしているうちに牛がおしっこをした。隣の牛はうんちをしている。牛が動いてそのうんちを踏んだ。
牛は多分ずっとあの場所にいるんだと思った。
近くに放牧できそうな広い土地は見当たらない。
牛がこっちを見ていた、きがした。
早く帰れと言っているのかな。
私たちは車で1時間かけてここまで来た。
自由に動き回った挙句ここに辿り着いた人間を見て、きっと生涯ほとんど自由に動けないであろう牛はなにを考えたのだろう。
もしかしたら私たちは牛から自由と幸せを奪っているかもしれない、という考えがよぎる。そんな牛からいただいた牛乳、そしていつもスーパーで買う牛肉。
牛の意思はわからない。牛にとっての幸せも人間が決めている。牛が狭い場所で搾乳し続けられていることが一概に牛にとっての不幸だとは決めつけ難い。
気仙沼に住んでいた時、牛を愛して牛を育てる酪農家さんにあったことがある。
その時に会った牛より今回会った牛の方が、私には幾分か悲しそうな顔に見えた。
牛の幸せは誰にも決められない。
食べないことが正義ではない。
でもやっぱり私は命を食べれない。
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